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真宗大谷派笠松別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''真宗大谷派笠松別院'''(しんしゅうおおたには・かさまつ・べついん)は、岐阜県羽島郡笠松町にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。(参考:同名寺院[[笠松別院]]) | '''真宗大谷派笠松別院'''(しんしゅうおおたには・かさまつ・べついん)は、岐阜県羽島郡笠松町にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。(参考:同名寺院[[笠松別院]]) | ||
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文政年間、[[西本願寺]]19代本如が江戸に下る際、この付近に休息する末寺がなかったため、天保8年(1837)門徒が坊舎を立てた。現在の西本願寺の[[本願寺笠松別院|笠松別院]]である。[[東本願寺]]では休息する末寺があったが、西派に動きに刺激され、門徒らが天保10年(1839)に一宇を建てた。これが東本願寺の笠松別院の始まりである。その後、'''東本願寺掛所'''となり、明治9年、'''笠松別院'''となった。明治24年の濃尾地震で甚大な被害をこうむった。その後、本堂、山門などを再建したが、昭和49年に失火で焼失。再建の目処は立っていない。 | 文政年間、[[西本願寺]]19代本如が江戸に下る際、この付近に休息する末寺がなかったため、天保8年(1837)門徒が坊舎を立てた。現在の西本願寺の[[本願寺笠松別院|笠松別院]]である。[[東本願寺]]では休息する末寺があったが、西派に動きに刺激され、門徒らが天保10年(1839)に一宇を建てた。これが東本願寺の笠松別院の始まりである。その後、'''東本願寺掛所'''となり、明治9年、'''笠松別院'''となった。明治24年の濃尾地震で甚大な被害をこうむった。その後、本堂、山門などを再建したが、昭和49年に失火で焼失。再建の目処は立っていない。 | ||
- | 当時の輪番が建てた[[明治天皇]]行在所が移築されている。 | + | 当時の輪番が建てた[[明治天皇]]行在所が移築されている。[[東流廃寺]]の礎石がある。 |
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+ | file:91856060-0F38-45F3-B7E5-61428C5FFA91.jpeg|東流廃寺の礎石 | ||
+ | file:B360CFB7-D9D7-4731-B6C6-7D390EA3572D.jpeg|経蔵か | ||
+ | file:5C2FF8AB-199D-4067-B9CE-815678130A2F.jpeg|仮本堂 | ||
+ | file:A70929DC-9606-4918-87E6-198537B79351.jpeg|本堂跡。40年以上再建されていない。 | ||
+ | file:F1D7FF53-BB24-41B5-9DAA-7F51C72C9ED8.jpeg|石碑 | ||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部 | *木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部 | ||
[[Category:岐阜県]] | [[Category:岐阜県]] |
2021年8月30日 (月) 時点における版
真宗大谷派笠松別院(しんしゅうおおたには・かさまつ・べついん)は、岐阜県羽島郡笠松町にある真宗大谷派の別院。(参考:同名寺院笠松別院)
文政年間、西本願寺19代本如が江戸に下る際、この付近に休息する末寺がなかったため、天保8年(1837)門徒が坊舎を立てた。現在の西本願寺の笠松別院である。東本願寺では休息する末寺があったが、西派に動きに刺激され、門徒らが天保10年(1839)に一宇を建てた。これが東本願寺の笠松別院の始まりである。その後、東本願寺掛所となり、明治9年、笠松別院となった。明治24年の濃尾地震で甚大な被害をこうむった。その後、本堂、山門などを再建したが、昭和49年に失火で焼失。再建の目処は立っていない。
当時の輪番が建てた明治天皇行在所が移築されている。東流廃寺の礎石がある。
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部