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寿福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年1月16日 (日)
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- | '''寿福寺''' | + | '''寿福寺'''は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷(相模国鎌倉郡)にある[[臨済宗]]の本山級寺院。[[源家]]ゆかり。[[臨済宗建長寺派]]。[[鎌倉五山]]の第3位。北条政子が[[源頼朝]]の菩提寺として[[栄西]]を招き創建。[[関東祈祷所]]。[[源実朝墓]]・[[北条政子墓]]がある。'''寿福金剛禅寺'''。山号は亀谷山。 |
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+ | == 歴史 == | ||
+ | 鎌倉幕府が開かれる以前、元は源義朝の邸宅があった場所だと伝える。 | ||
+ | 鎌倉入りした源頼朝は当初、幕府をこの場所に建てようとしたが、岡崎義実の土地となっており、断念した。岡崎義実はこの地に源義朝の菩提を弔うための[[亀谷堂]]という仏堂を建てていた。のち、子の土屋義清が受け継いだ。1181年(養和1年)3月1日、亀谷堂で、頼朝母の供養が営まれた。 | ||
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+ | 1200年(正治2年)閏2月12日、北条政子が頼朝の菩提寺の創建を発願。翌日、将軍源頼家により、この土地は京都から招かれた栄西に寄進された。7月15日には十六羅漢の開眼供養が営まれており、何らかの仏堂が完成していたようだ。その後も造営は続けられたようだが、1247年(宝治1年)11月7日、1258年(正嘉2年)1月17日に全焼した。 | ||
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+ | 1215年(建保3年)に栄西が没して[[退耕行勇]]が晋山。初期は禅密兼修だったが、鎌倉の武士たちに禅宗が浸透する拠点となり、鎌倉の禅宗興隆の礎となった。[[円爾弁円]]が禅林清規が定めた。 | ||
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+ | 幕府とは密接な関係にあり、北条政子や源実朝がたびたび参詣しているが、紀行文には取り上げられることもなく、当初はこじんまりとした伽藍だったと考えられる。禅刹としての体裁は1278年(弘安1年)頃に整えられたと推定されている。1283年(弘安6年)、大休正念が塔頭蔵六庵を創建した。 | ||
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+ | 1323年(元亨3年)の北条貞時十三年忌供養には寿福寺から260人の僧侶が出仕しているが、これは[[建長寺]]・[[鎌倉・円覚寺|円覚寺]]に次ぐ規模であり、非常に興隆していたことが伺える。 | ||
+ | 鎌倉末期に五山に列格。 | ||
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+ | 1342年(興国3年/康永1年)に[[日本五山|五山]]3位となり、1386年(元中3年/至徳3年)には[[鎌倉五山]]3位となった。 | ||
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+ | 1367年(正平22年/貞治6年)、義堂周信が寿福寺逍遥庵を訪れ、栄西頂相を参拝した。 | ||
+ | 1335年(建武2年)頃、蔵六庵は円覚寺に移転した。 | ||
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+ | 1395年(応永2年)火災。 | ||
+ | 1467年(応仁1年)火災。1468年(応仁2年)には五重塔が倒壊した。 | ||
+ | 1486年(文明18年)ごろに参詣した万里集九の「一人の僧侶にも遭わなかった」と書かれるほど衰退した。 | ||
+ | 1591年(天正19年)、[[徳川家康]]が5貫200文を寄進。 | ||
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+ | 1649年(慶安2年)、寿福寺敷地を削って[[水戸徳川家]]初代の徳川頼房が母の菩提寺として[[英勝寺]]を建てたため、寺領を加増された。 | ||
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+ | 1714年(正徳4年)、仏殿を建立。 | ||
+ | 1844年(弘化1年)、開山堂や客殿を建立した。 | ||
+ | (『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか) | ||
==伽藍== | ==伽藍== | ||
+ | ===中世=== | ||
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+ | ===現在=== | ||
+ | *仏殿:本尊の釈迦如来三尊像は唐の陳和卿の作と伝えられ、籠釈迦と呼ばれる。 | ||
+ | *[[源実朝墓]] | ||
+ | *[[北条政子墓]] | ||
==塔頭== | ==塔頭== | ||
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*松鵠庵: | *松鵠庵: | ||
*桂光庵: | *桂光庵: | ||
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*桂昌庵: | *桂昌庵: | ||
*瑞龍庵: | *瑞龍庵: | ||
- | * | + | *蔵六庵:大休正念の塔頭。1335年(建武2年)頃、円覚寺に移転した。 |
*乾徳寺:月山希一が創建。龍興山 | *乾徳寺:月山希一が創建。龍興山 | ||
== 組織 == | == 組織 == | ||
===住職=== | ===住職=== | ||
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- | *退耕行勇 | + | *1[[明庵栄西]](1141-1215)<>: |
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+ | *寂庵上昭(1229-1316)<>:蔵叟朗誉に学ぶ。諡号は宏光禅師。 | ||
+ | *5[[蘭渓道隆]](1213-1278)<>:大覚派の祖。渡来僧。1246年(寛元4年)来日。寿福寺住職。[[建長寺]]開山となる。のち建仁寺に住す。甲斐配流になるが寿福寺に復帰。諡号は大覚禅師。 | ||
+ | *6大休正念(1215-1289)<>:仏源派(大休派)の祖。渡来僧。1269年(文永6年)来日。[[禅興寺]]、建長寺、寿福寺、円覚寺を歴任。[[浄智寺]]を創建する。諡号は仏源禅師。 | ||
+ | *林叟徳瓊(1251-1321)<>:蘭渓道隆の法嗣。宋に留学。1295年(永仁3年)帰国して小味寺住職。禅興寺、寿福寺を歴任。諡号は覚照禅師。 | ||
+ | *嶮崖巧安(1252-1331)<>:寿福寺、建長寺、[[聖福寺]]、[[瑞泉寺]]に住す。 | ||
+ | *南山士雲(1254-1335)<>:[[円爾弁円]]から[[無準師範]]所伝の法衣を授けられた。1298年(永仁6年)[[承天寺]]住職。円爾弁円の死後にその法嗣となる。1301年(正安3年)法蔵寺住職。1307年(徳治2年)東勝寺住職。東福寺、寿福寺、円覚寺に歴任。1320年(元応2年)建長寺住職。1321年(元亨1年)、崇寿寺を創建。1322年(元亨2年)[[東福寺荘厳蔵院]]を創建。九州に下り承天寺に寄寓。塔所は東福寺荘厳蔵院と円覚寺伝宗庵。 | ||
+ | *鉄庵道生(1262-1331)<>:大休正念の法嗣。出羽[[資福寺]]、筑前聖福寺、建仁寺、寿福寺を歴任。諡号は本源禅師。 | ||
+ | *秋澗道泉(1263-1323)<>:大休正念の法嗣。備中出身。大休正念、ついで樵谷惟僊に師事。諡号は大法源禅師。(澗は石篇とも) | ||
+ | *大川道通(1265-1339)<>:大休正念の法嗣。寿福寺、円覚寺を歴任。建長寺の招請を受けたが就任前に死去。 | ||
+ | *石梁仁恭(1266-1334)<>:渡来僧。[[一山一寧]]と共に来日。[[慈雲寺]]、[[慈寿寺]]、聖福寺、寿福寺、建仁寺を歴任した。 | ||
+ | *無惑良欽()<>:一山一寧の法嗣。 | ||
+ | *大用慧堪(1268-1347)<>:[[無学祖元]]の法嗣。正隆庵に隠居。諡号は霊光禅師。 | ||
+ | *東明慧日(1272-1340)<>:[[曹洞宗宏智派]]。渡来僧。円覚寺、寿福寺、建長寺を歴任。 | ||
+ | *象先文岑(1275-1342)<>:桃渓徳悟の法嗣。象外。 | ||
+ | *了堂素安(1292-1360)<>:同源道本の法嗣。鎌倉法泉寺・伊豆吉祥寺を創建。建長寺、寿福寺を歴任。諡号は本覚禅師。 | ||
+ | *無礙妙謙(?-1369)<>:[[高峰顕日]]の法嗣。元にわたり中峰明本に師事する。寿福寺、円覚寺を歴任。[[韮山国清寺]]開山となる。諡号は仏真禅師。 | ||
+ | *曇芳周応(?-1401)<>:[[夢窓疎石]]の法嗣。寿福寺、円覚寺、建長寺を歴任。 | ||
+ | *雲屋恵輪()<>:1323年(元亨3年)在職。 | ||
+ | *愚渓右慧(生没年不詳)<>:画僧。鉄舟徳済の弟子。 | ||
+ | *信中自敬(生没年不詳)<>:正法寺の嫩桂正栄の法嗣。元に留学。一心。 | ||
+ | *華峰僧一()<>: | ||
+ | *全提志令()<>:南洲宏海の法嗣。 | ||
+ | *明巌正因()<>: | ||
+ | *得翁融永(生没年不詳)<>:元は[[曹洞宗]]僧侶。無著妙融の法嗣となり、[[皇徳寺]]住職となる。臨済宗五山派に帰し、[[京都安国寺]]、寿福寺を歴任。 | ||
+ | *霊峰慧剣(生没年不詳)<>:山叟慧雲の法嗣。寿福寺、[[南禅寺]]、播磨法雲寺を歴任。出雲華蔵寺を創建。 | ||
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2022年1月16日 (日) 時点における最新版
寿福寺は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷(相模国鎌倉郡)にある臨済宗の本山級寺院。源家ゆかり。臨済宗建長寺派。鎌倉五山の第3位。北条政子が源頼朝の菩提寺として栄西を招き創建。関東祈祷所。源実朝墓・北条政子墓がある。寿福金剛禅寺。山号は亀谷山。
目次 |
歴史
鎌倉幕府が開かれる以前、元は源義朝の邸宅があった場所だと伝える。 鎌倉入りした源頼朝は当初、幕府をこの場所に建てようとしたが、岡崎義実の土地となっており、断念した。岡崎義実はこの地に源義朝の菩提を弔うための亀谷堂という仏堂を建てていた。のち、子の土屋義清が受け継いだ。1181年(養和1年)3月1日、亀谷堂で、頼朝母の供養が営まれた。
1200年(正治2年)閏2月12日、北条政子が頼朝の菩提寺の創建を発願。翌日、将軍源頼家により、この土地は京都から招かれた栄西に寄進された。7月15日には十六羅漢の開眼供養が営まれており、何らかの仏堂が完成していたようだ。その後も造営は続けられたようだが、1247年(宝治1年)11月7日、1258年(正嘉2年)1月17日に全焼した。
1215年(建保3年)に栄西が没して退耕行勇が晋山。初期は禅密兼修だったが、鎌倉の武士たちに禅宗が浸透する拠点となり、鎌倉の禅宗興隆の礎となった。円爾弁円が禅林清規が定めた。
幕府とは密接な関係にあり、北条政子や源実朝がたびたび参詣しているが、紀行文には取り上げられることもなく、当初はこじんまりとした伽藍だったと考えられる。禅刹としての体裁は1278年(弘安1年)頃に整えられたと推定されている。1283年(弘安6年)、大休正念が塔頭蔵六庵を創建した。
1323年(元亨3年)の北条貞時十三年忌供養には寿福寺から260人の僧侶が出仕しているが、これは建長寺・円覚寺に次ぐ規模であり、非常に興隆していたことが伺える。 鎌倉末期に五山に列格。
1342年(興国3年/康永1年)に五山3位となり、1386年(元中3年/至徳3年)には鎌倉五山3位となった。
1367年(正平22年/貞治6年)、義堂周信が寿福寺逍遥庵を訪れ、栄西頂相を参拝した。 1335年(建武2年)頃、蔵六庵は円覚寺に移転した。
1395年(応永2年)火災。 1467年(応仁1年)火災。1468年(応仁2年)には五重塔が倒壊した。 1486年(文明18年)ごろに参詣した万里集九の「一人の僧侶にも遭わなかった」と書かれるほど衰退した。 1591年(天正19年)、徳川家康が5貫200文を寄進。
1649年(慶安2年)、寿福寺敷地を削って水戸徳川家初代の徳川頼房が母の菩提寺として英勝寺を建てたため、寺領を加増された。
1714年(正徳4年)、仏殿を建立。 1844年(弘化1年)、開山堂や客殿を建立した。 (『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)
伽藍
中世
現在
塔頭
- 桂陰庵:
- 正隆庵:
- 悟本庵:
- 積翠庵:
- 逍遥庵:栄西の塔頭。
- 松鵠庵:
- 桂光庵:
- 大沢庵:
- 定光庵:
- 聯燈庵:
- 松月庵:
- 雲龍庵:
- 大秀庵:
- 桂昌庵:
- 瑞龍庵:
- 蔵六庵:大休正念の塔頭。1335年(建武2年)頃、円覚寺に移転した。
- 乾徳寺:月山希一が創建。龍興山
組織
住職
- 1明庵栄西(1141-1215)<>:
- 2退耕行勇(1163-1241)<>:
- 大歇了心(生没年不詳)<>:退耕行勇の法嗣。寿福寺、建仁寺を歴任。
- 蔵叟朗誉(1194-1277)<>:釈円栄朝の法嗣。長楽寺2世。1259年(正元1年)寿福寺住職。晩年、長楽寺に帰る。
- 寂庵上昭(1229-1316)<>:蔵叟朗誉に学ぶ。諡号は宏光禅師。
- 5蘭渓道隆(1213-1278)<>:大覚派の祖。渡来僧。1246年(寛元4年)来日。寿福寺住職。建長寺開山となる。のち建仁寺に住す。甲斐配流になるが寿福寺に復帰。諡号は大覚禅師。
- 6大休正念(1215-1289)<>:仏源派(大休派)の祖。渡来僧。1269年(文永6年)来日。禅興寺、建長寺、寿福寺、円覚寺を歴任。浄智寺を創建する。諡号は仏源禅師。
- 林叟徳瓊(1251-1321)<>:蘭渓道隆の法嗣。宋に留学。1295年(永仁3年)帰国して小味寺住職。禅興寺、寿福寺を歴任。諡号は覚照禅師。
- 嶮崖巧安(1252-1331)<>:寿福寺、建長寺、聖福寺、瑞泉寺に住す。
- 南山士雲(1254-1335)<>:円爾弁円から無準師範所伝の法衣を授けられた。1298年(永仁6年)承天寺住職。円爾弁円の死後にその法嗣となる。1301年(正安3年)法蔵寺住職。1307年(徳治2年)東勝寺住職。東福寺、寿福寺、円覚寺に歴任。1320年(元応2年)建長寺住職。1321年(元亨1年)、崇寿寺を創建。1322年(元亨2年)東福寺荘厳蔵院を創建。九州に下り承天寺に寄寓。塔所は東福寺荘厳蔵院と円覚寺伝宗庵。
- 鉄庵道生(1262-1331)<>:大休正念の法嗣。出羽資福寺、筑前聖福寺、建仁寺、寿福寺を歴任。諡号は本源禅師。
- 秋澗道泉(1263-1323)<>:大休正念の法嗣。備中出身。大休正念、ついで樵谷惟僊に師事。諡号は大法源禅師。(澗は石篇とも)
- 大川道通(1265-1339)<>:大休正念の法嗣。寿福寺、円覚寺を歴任。建長寺の招請を受けたが就任前に死去。
- 石梁仁恭(1266-1334)<>:渡来僧。一山一寧と共に来日。慈雲寺、慈寿寺、聖福寺、寿福寺、建仁寺を歴任した。
- 無惑良欽()<>:一山一寧の法嗣。
- 大用慧堪(1268-1347)<>:無学祖元の法嗣。正隆庵に隠居。諡号は霊光禅師。
- 東明慧日(1272-1340)<>:曹洞宗宏智派。渡来僧。円覚寺、寿福寺、建長寺を歴任。
- 象先文岑(1275-1342)<>:桃渓徳悟の法嗣。象外。
- 了堂素安(1292-1360)<>:同源道本の法嗣。鎌倉法泉寺・伊豆吉祥寺を創建。建長寺、寿福寺を歴任。諡号は本覚禅師。
- 無礙妙謙(?-1369)<>:高峰顕日の法嗣。元にわたり中峰明本に師事する。寿福寺、円覚寺を歴任。韮山国清寺開山となる。諡号は仏真禅師。
- 曇芳周応(?-1401)<>:夢窓疎石の法嗣。寿福寺、円覚寺、建長寺を歴任。
- 雲屋恵輪()<>:1323年(元亨3年)在職。
- 愚渓右慧(生没年不詳)<>:画僧。鉄舟徳済の弟子。
- 信中自敬(生没年不詳)<>:正法寺の嫩桂正栄の法嗣。元に留学。一心。
- 華峰僧一()<>:
- 全提志令()<>:南洲宏海の法嗣。
- 明巌正因()<>:
- 得翁融永(生没年不詳)<>:元は曹洞宗僧侶。無著妙融の法嗣となり、皇徳寺住職となる。臨済宗五山派に帰し、京都安国寺、寿福寺を歴任。
- 霊峰慧剣(生没年不詳)<>:山叟慧雲の法嗣。寿福寺、南禅寺、播磨法雲寺を歴任。出雲華蔵寺を創建。