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現・讃岐国分寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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秘仏本尊である大型の十一面千手観音像と梵鐘は、平安時代の製作とみられ、古代国分寺の伝統を今に伝えるものと言える。 | 秘仏本尊である大型の十一面千手観音像と梵鐘は、平安時代の製作とみられ、古代国分寺の伝統を今に伝えるものと言える。 | ||
- | + | 由緒では、[[行基]]が千手観音を祭って創建されたとされる。その後、[[空海]]が訪れ中興したという。 | |
- | + | 諸国国分寺の中でも大規模な伽藍を誇った、古代の讃岐国分寺は、11世紀ごろには衰微したとみられる。その後、[[真言律宗]][[西大寺]]流の僧が、各地の国分寺を復興したが、讃岐国分寺も室町時代の明徳2年(1391)には西大寺の末寺になっていた記録がある。ただ現本堂は、鎌倉時代中期の造営と推測され、嘉元4年(1306)に西大寺長老2世の信空が近隣の[[鷲峰寺]]に滞在しており、その頃には西大寺末になっていたと考えられている。現在は、[[仁和寺]]の末寺。 | |
本尊には、大永8年(1528)に安芸宮島の人が書いた「南無大師遍照金剛」との落書きがあり、この頃には四国霊場に組み込まれていたとみられる。天正の兵乱で大きな被害を受けた。 | 本尊には、大永8年(1528)に安芸宮島の人が書いた「南無大師遍照金剛」との落書きがあり、この頃には四国霊場に組み込まれていたとみられる。天正の兵乱で大きな被害を受けた。 | ||
- | + | 江戸時代、高松藩主の生駒家、松平家の庇護を受けた。史跡調査が盛んになった幕末には、北東約2kmにある[[讃岐国分尼寺]]跡に[[讃岐・法華寺|法華寺]]が再興された。 | |
金堂は、古代の講堂跡の上に礎石を再利用して建てられている。仁王門は、中門跡とみられている。 | 金堂は、古代の講堂跡の上に礎石を再利用して建てられている。仁王門は、中門跡とみられている。 | ||
- | + | なお、四国霊場としては前の第79番札所[[天皇寺]]からは⚫︎km、次の第81番札所[[白峰寺]]まで⚫︎kmある。 | |
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+ | [[category:香川県]] |
2015年4月6日 (月) 時点における版
国分寺は、香川県高松市国分寺町にある、古代の讃岐国分寺を継承する真言宗寺院。古代伽藍跡に位置する。四国八十八所霊場第80番札所。本尊は十一面千手観音。真言宗御室派。白牛山千手院国分寺。
秘仏本尊である大型の十一面千手観音像と梵鐘は、平安時代の製作とみられ、古代国分寺の伝統を今に伝えるものと言える。
由緒では、行基が千手観音を祭って創建されたとされる。その後、空海が訪れ中興したという。 諸国国分寺の中でも大規模な伽藍を誇った、古代の讃岐国分寺は、11世紀ごろには衰微したとみられる。その後、真言律宗西大寺流の僧が、各地の国分寺を復興したが、讃岐国分寺も室町時代の明徳2年(1391)には西大寺の末寺になっていた記録がある。ただ現本堂は、鎌倉時代中期の造営と推測され、嘉元4年(1306)に西大寺長老2世の信空が近隣の鷲峰寺に滞在しており、その頃には西大寺末になっていたと考えられている。現在は、仁和寺の末寺。
本尊には、大永8年(1528)に安芸宮島の人が書いた「南無大師遍照金剛」との落書きがあり、この頃には四国霊場に組み込まれていたとみられる。天正の兵乱で大きな被害を受けた。
江戸時代、高松藩主の生駒家、松平家の庇護を受けた。史跡調査が盛んになった幕末には、北東約2kmにある讃岐国分尼寺跡に法華寺が再興された。
金堂は、古代の講堂跡の上に礎石を再利用して建てられている。仁王門は、中門跡とみられている。