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京都・光福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月17日 (日)
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'''光福寺'''(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある[[浄土宗]]寺院。[[空也堂]]と共に[[六斎念仏]]の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。'''斎教院'''、'''安養殿'''。山号は干菜山。通称は'''干菜寺'''、'''乾菜寺'''(ほしなでら)。中世は[[西山派]]だったが、[[浄土宗知恩院派]]。(参考:同名寺院[[光福寺]]) | '''光福寺'''(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある[[浄土宗]]寺院。[[空也堂]]と共に[[六斎念仏]]の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。'''斎教院'''、'''安養殿'''。山号は干菜山。通称は'''干菜寺'''、'''乾菜寺'''(ほしなでら)。中世は[[西山派]]だったが、[[浄土宗知恩院派]]。(参考:同名寺院[[光福寺]]) | ||
- | + | ==歴史== | |
- | + | *寺伝によると、山城国乙訓郡柳谷(京都府長岡京市浄土谷柳谷)近くの安養谷にあったとされる東善寺が前身。東善寺は[[源信]]が創建したと伝える。 | |
- | [[証空]] | + | *[[証空]]の3世法孫の道空は[[円爾弁円]]の教えで東善寺に入り、母の守り本尊である千手千眼観音を祀った。 |
- | + | *1264年10月7日、道空は奇瑞を得て六斎念仏を感得した。あるいは道空は寛元年間、春日烏丸に常行院を建て六斎念仏を始めたという(1267年とも)。天聴に達して王城守護のために祈り、勅願所となった。1313年、宮中にあった阿弥陀如来を賜った。 | |
- | 1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 | + | *天文年間、4世の信光が斎教院を開いた。 |
- | 聚楽第時代の[[豊臣秀吉]] | + | *1519年、斎教院が[[後柏原天皇]]から六斎念仏の総本山に定められた。 |
- | 1637年、[[知恩院]]末となった。 | + | *1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 |
- | 1645年6月、鎮守八幡宮の再建勧進のため「下鴨会式」で相撲を興行したがこれが京都での勧進相撲の始まりとされる(相撲大全)。 | + | *聚楽第時代の[[豊臣秀吉]]が鷹狩に付近に来た時に寺に滞在。しかし貧しい地であるため他に献上する物がなく、干し菜を出したところ、その誠意に感じるところがあり、寺産(寺領?)を下した。よって干菜寺と呼ばれるようになったという。秀吉は光福寺の名を与えた。 |
- | 1861年、知恩院の[[法然]]遠忌で光福寺住職を導師に六斎念仏を行った(華頂山大法会図録)) | + | *1601年、火災。 |
+ | *1637年、[[知恩院]]末となった。 | ||
+ | *1645年6月、鎮守八幡宮の再建勧進のため「下鴨会式」で相撲を興行したがこれが京都での勧進相撲の始まりとされる(相撲大全)。 | ||
+ | *1861年、知恩院の[[法然]]遠忌で光福寺住職を導師に六斎念仏を行った(華頂山大法会図録)) | ||
(『日本歴史地名大系』ほか) | (『日本歴史地名大系』ほか) | ||
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===住職=== | ===住職=== | ||
- | * | + | *道空(?-1315)<>:[[六斎念仏]]1世。伊達家出身という。[[証空]]、浄音、観智の法脈を継ぐという。あるいは[[円爾弁円]]に師事したという。東善寺を中興。常行院、[[光堂]]を兼務。1315年6月25日死去。1317年10月21日、法如の諡号を贈られた。紅蓮社諦誉心阿道空法如。 |
- | *空察()<> | + | *空察()<>:六斎念仏2世。 |
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- | *信光()<> | + | *信光()<>:六斎念仏4世。斎教院1世。 |
*寿源()<>:斎教院2世。 | *寿源()<>:斎教院2世。 | ||
*1宗心(1541-1626)<>:斎教院3世。丹波出身。[[聖衆来迎寺]]の庭を作ったとの伝承がある。三蓮社光誉上人円阿月空宗心和尚 | *1宗心(1541-1626)<>:斎教院3世。丹波出身。[[聖衆来迎寺]]の庭を作ったとの伝承がある。三蓮社光誉上人円阿月空宗心和尚 | ||
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===古典籍=== | ===古典籍=== | ||
- | * | + | *「浄土常修六斎念仏興起」:1314年に道空が空察に記して授与したという奥書があるが桃山時代の成立とみられる。[[随心院門跡]]俊海(1651-1682)が1682年に書写して正慶に与えた。『民間念仏信仰研究資料集』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1872758/57] |
*「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。 | *「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。 | ||
*「浄土常行六斎念仏興起」 | *「浄土常行六斎念仏興起」 |
2023年12月17日 (日) 時点における最新版
光福寺(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある浄土宗寺院。空也堂と共に六斎念仏の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。斎教院、安養殿。山号は干菜山。通称は干菜寺、乾菜寺(ほしなでら)。中世は西山派だったが、浄土宗知恩院派。(参考:同名寺院光福寺)
目次 |
歴史
- 寺伝によると、山城国乙訓郡柳谷(京都府長岡京市浄土谷柳谷)近くの安養谷にあったとされる東善寺が前身。東善寺は源信が創建したと伝える。
- 証空の3世法孫の道空は円爾弁円の教えで東善寺に入り、母の守り本尊である千手千眼観音を祀った。
- 1264年10月7日、道空は奇瑞を得て六斎念仏を感得した。あるいは道空は寛元年間、春日烏丸に常行院を建て六斎念仏を始めたという(1267年とも)。天聴に達して王城守護のために祈り、勅願所となった。1313年、宮中にあった阿弥陀如来を賜った。
- 天文年間、4世の信光が斎教院を開いた。
- 1519年、斎教院が後柏原天皇から六斎念仏の総本山に定められた。
- 1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。
- 聚楽第時代の豊臣秀吉が鷹狩に付近に来た時に寺に滞在。しかし貧しい地であるため他に献上する物がなく、干し菜を出したところ、その誠意に感じるところがあり、寺産(寺領?)を下した。よって干菜寺と呼ばれるようになったという。秀吉は光福寺の名を与えた。
- 1601年、火災。
- 1637年、知恩院末となった。
- 1645年6月、鎮守八幡宮の再建勧進のため「下鴨会式」で相撲を興行したがこれが京都での勧進相撲の始まりとされる(相撲大全)。
- 1861年、知恩院の法然遠忌で光福寺住職を導師に六斎念仏を行った(華頂山大法会図録))
(『日本歴史地名大系』ほか)
組織
住職
- 道空(?-1315)<>:六斎念仏1世。伊達家出身という。証空、浄音、観智の法脈を継ぐという。あるいは円爾弁円に師事したという。東善寺を中興。常行院、光堂を兼務。1315年6月25日死去。1317年10月21日、法如の諡号を贈られた。紅蓮社諦誉心阿道空法如。
- 空察()<>:六斎念仏2世。
- 察源()<>:六斎念仏3世。
- 信光()<>:六斎念仏4世。斎教院1世。
- 寿源()<>:斎教院2世。
- 1宗心(1541-1626)<>:斎教院3世。丹波出身。聖衆来迎寺の庭を作ったとの伝承がある。三蓮社光誉上人円阿月空宗心和尚
- 2真慶()<>:得蓮社涼誉実阿真慶和尚
- 3慶珍(?-1634)<>:澄蓮社真誉上人広阿慶珍和尚
- 4宗円()<>:栄蓮社貞誉化阿宗円和尚
- 5正慶(1672-1706)<>:単誉正慶和尚
- 6順栄()<>:順栄和尚
- 7正波()<>:正波和尚
- 8寿観(?-1796)<>:量誉寿観
- 9達誉()<>:
- 10真誉()<>:
- 18伊藤大寛()<>:
資料
古典籍
- 「浄土常修六斎念仏興起」:1314年に道空が空察に記して授与したという奥書があるが桃山時代の成立とみられる。随心院門跡俊海(1651-1682)が1682年に書写して正慶に与えた。『民間念仏信仰研究資料集』[1]
- 「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。
- 「浄土常行六斎念仏興起」
- 「光福寺筆録」:1676年。正慶が編纂
- 「禁裏表誌事願件控并献上物控」:1751年。
- 「六斎支配村方控牒」:『民間念仏信仰研究資料集』[2]:1755年。140以上の講中を列挙する。
- 「光福寺作庭秘伝書」:寿観。1765年。
- 「諸用記録」:文化6年
- 「日次記事」:江戸時代初期
- 「干菜山光福寺縁起」
- 「開山法如上人略縁起」
- 「中興宗心上人略縁起」
- 「華頂山大法会図録」
- 『東北歴覧之記』:1681年。黒川道祐著。干菜寺の名前由来を収録。