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有智山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年9月28日 (土)
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'''有智山寺'''は、福岡県太宰府市の[[宝満山]]にあった[[天台宗]]寺院。古代の[[天台別院]]。[[最澄]]や[[円仁]]の旧跡で、[[六所宝塔]]の一つが建てられた。のち[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[竈門神社]]がある。'''大山寺'''、'''竈門山寺'''、'''内山寺'''、'''宝仲寺'''などとも呼ぶ。 | '''有智山寺'''は、福岡県太宰府市の[[宝満山]]にあった[[天台宗]]寺院。古代の[[天台別院]]。[[最澄]]や[[円仁]]の旧跡で、[[六所宝塔]]の一つが建てられた。のち[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[竈門神社]]がある。'''大山寺'''、'''竈門山寺'''、'''内山寺'''、'''宝仲寺'''などとも呼ぶ。 | ||
+ | == 歴史 == | ||
+ | 天武天皇の時代に心蓮が創建。のち役小角が登り、七窟を開いたという。 | ||
+ | 元は法相宗だったと伝える。 | ||
+ | 平安時代から鎌倉時代には大山寺、有智山寺、内山寺と呼ばれた。 | ||
+ | 宝仲寺(宝中寺)の呼称が現れるのは江戸時代以降。 | ||
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+ | 1066年、座主が浄戒坊を名乗る。 | ||
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+ | 1083年、石清水八幡宮権別当の頼清が大山寺別当となり、大山寺は石清水の末寺となった。 | ||
+ | 1102年、大山寺は宇佐神宮(石清水八幡宮の配下)の神領大宰府南園を横領。 | ||
+ | これは本所である石清水八幡宮への反逆行為だったが、大山寺の背後には石清水八幡宮勢力拡大を警戒する延暦寺の支援があったと推定される。 | ||
+ | 1104年には延暦寺大衆の使いと称する者が今度は大山寺領を濫妨した。 | ||
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+ | 1105年3月3日、竈門上宮が焼失。延暦寺が石清水八幡宮と結んでいた大宰権帥藤原季仲を訴え、朝廷で議論になった。 | ||
+ | 京都では10月30日延暦寺衆徒が祇園社神輿を奉じて陽明門に至り強訴。石清水神人と乱闘になった。 | ||
+ | 朝廷は11月1日石清水別当光清を解任。12月29日藤原季仲を周防流罪とし、翌年、常陸流罪に改めた。同年11月3日に竈門宮は正一位となった。 | ||
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+ | この事件の結果、大山寺は延暦寺の末寺となった。 | ||
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+ | 1657年、英彦山末となる。 | ||
+ | 1665年、聖護院末となる。 | ||
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+ | 1686年、英彦山と本末争論。 | ||
+ | 1696年和睦。 | ||
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+ | 1868年、神仏分離令で座主などが還俗し神職となる。 | ||
+ | 山内が廃仏派と奉仏派に別れて争うこととなる。 | ||
+ | 1670年8月、廃仏毀釈が行われ、仏堂などが破壊される。廃絶となる。 | ||
== 組織 == | == 組織 == | ||
===歴代別当=== | ===歴代別当=== | ||
- | * | + | *院範(?-1083):1080年6月6日に上京。1083年3月3日、頼清に別当職を奪われて憤死。 |
- | * | + | *頼清():[[石清水八幡宮]]権別当。 |
- | * | + | *光清():石清水八幡宮別当。 |
- | * | + | *法薬(): |
- | * | + | *元慶():『袋草紙』に名がある。 |
===歴代座主=== | ===歴代座主=== | ||
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+ | *46兼雅()<1689->:藤井甚太郎の親族。藩主黒田正之により南都[[五大院]]から招かれ、座主坊として楞伽院を創建。以後世襲となる。大僧都法印。 | ||
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+ | *49兼雅()<1774-1792>:建雅に改名。権大僧都法印。福岡藩と揉めたのか、1792年頃に引退させられた。 | ||
+ | *(秀雅)再任()<1792->: | ||
+ | *50泰雅()<-1817>:秀雅の子。大僧都法印。引退後は随解院と号す。 | ||
+ | *51信雅(1796-1850)<1817-1847>:真雅とも。1817年の就任とされるが、1816年の銘文には座主とある。大僧都法印。1850年10月12日死去。55歳。 | ||
+ | *52周雅()<1847-1868>:信雅の長男。大僧都法印。1868年、還俗して藤井高門と名乗り、宝満宮社務頭を称す。 | ||
+ | *(台雅):周雅の子。龍王院と号す。藤井延彦か。 | ||
+ | *(宗弁):明治1-2年頃、修験寺院に留まった十六坊は宝仲寺を称して前亀石坊宗弁を座主とした。明治3年9月の廃仏で還俗したとみられる。 | ||
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2019年9月28日 (土) 時点における最新版
有智山寺は、福岡県太宰府市の宝満山にあった天台宗寺院。古代の天台別院。最澄や円仁の旧跡で、六所宝塔の一つが建てられた。のち聖護院末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、竈門神社がある。大山寺、竈門山寺、内山寺、宝仲寺などとも呼ぶ。
目次 |
歴史
天武天皇の時代に心蓮が創建。のち役小角が登り、七窟を開いたという。 元は法相宗だったと伝える。 平安時代から鎌倉時代には大山寺、有智山寺、内山寺と呼ばれた。 宝仲寺(宝中寺)の呼称が現れるのは江戸時代以降。
1066年、座主が浄戒坊を名乗る。
1083年、石清水八幡宮権別当の頼清が大山寺別当となり、大山寺は石清水の末寺となった。 1102年、大山寺は宇佐神宮(石清水八幡宮の配下)の神領大宰府南園を横領。 これは本所である石清水八幡宮への反逆行為だったが、大山寺の背後には石清水八幡宮勢力拡大を警戒する延暦寺の支援があったと推定される。 1104年には延暦寺大衆の使いと称する者が今度は大山寺領を濫妨した。
1105年3月3日、竈門上宮が焼失。延暦寺が石清水八幡宮と結んでいた大宰権帥藤原季仲を訴え、朝廷で議論になった。
京都では10月30日延暦寺衆徒が祇園社神輿を奉じて陽明門に至り強訴。石清水神人と乱闘になった。
朝廷は11月1日石清水別当光清を解任。12月29日藤原季仲を周防流罪とし、翌年、常陸流罪に改めた。同年11月3日に竈門宮は正一位となった。
この事件の結果、大山寺は延暦寺の末寺となった。
1657年、英彦山末となる。 1665年、聖護院末となる。
1686年、英彦山と本末争論。 1696年和睦。
1868年、神仏分離令で座主などが還俗し神職となる。 山内が廃仏派と奉仏派に別れて争うこととなる。 1670年8月、廃仏毀釈が行われ、仏堂などが破壊される。廃絶となる。
組織
歴代別当
- 院範(?-1083):1080年6月6日に上京。1083年3月3日、頼清に別当職を奪われて憤死。
- 頼清():石清水八幡宮権別当。
- 光清():石清水八幡宮別当。
- 法薬():
- 元慶():『袋草紙』に名がある。
歴代座主
- 1役小角()<>:
- 2義道()<>:
- 3義〓()<>:
- 4智琢()<>:
- 5円澄()<>:
- 6慈英()<>:
- 7英澄()<>:
- 8宗秀()<>:
- 9湛淵()<>:
- 10良鎮()<>:
- 11浄戒()<>:
- 12浄珍()<>:
- 13浄周()<>:
- 14浄全()<>:
- 15隆搵()<>:
- 16隆賢()<>:
- 17隆範()<>:
- 18隆全()<>:
- 19良掩()<>:
- 20深雄()<>:
- 21浄雄()<>:
- 22浄鉄()<>:
- 23浄機()<>:
- 24機元()<>:
- 25湛然()<>:
- 26湛応()<>:
- 27浄応()<>:
- 28永雄()<>:
- 29永戒()<>:
- 30豪戒()<>:
- 31豪添()<>:
- 32豪湠()<>:
- 33揮雅()<>:
- 34揮禋()<>:
- 35浄湮()<>:
- 36隆春()<>:
- 37隆湮()<>:
- 38隆全()<>:
- 39隆円()<>:
- 40隆曇()<>:
- 41隆成()<1554-1589?>:座主中絶
- 42重円()<1593-1597>:座主42世とされる。小早川隆景が任命。平石坊。権大僧都。
- 43幸覚()<1597->:以後輪番。権大僧都。
- (衆頭)(幸吟)(-1645)<1616-1638>:1616年、20歳余りで衆頭となる。 1638年退任。1645年に衆頭に再任。同年7月22日(23日とも)、秋峰の行中、福泉坊玉蔵に殺害された。
- (衆頭)(幸伝)(-1645)<1639-1645>:
- (衆頭)(幸吟)(-1645)<1645-1645>:
- 44幸重(1595-1675)<1634-1672>:平石坊。1645年、衆頭を兼ねる。1672年、老齢で隠退。1675年5月、死去。81歳。権大僧都。
- 45弘有()<1672-1688>:平石坊。1658年、衆頭となる。1672年、座主。英彦山末から離脱を図り聖護院末となる。福岡藩と争論があり、その折衝を貝原益軒が担当している。具体的な内容は不明だが、当時、英彦山が離脱した宝満山の違反を福岡藩に強硬に訴えていた。1688年2月2日、福岡藩は禁錮の処分を下し、追放した。平石坊は廃絶。権大僧都。
- 46兼雅()<1689->:藤井甚太郎の親族。藩主黒田正之により南都五大院から招かれ、座主坊として楞伽院を創建。以後世襲となる。大僧都法印。
- 47秀雅()<1713-1742>:権大僧都。
- 48真雅()<1742-1774>:権大僧都法印。
- 49兼雅()<1774-1792>:建雅に改名。権大僧都法印。福岡藩と揉めたのか、1792年頃に引退させられた。
- (秀雅)再任()<1792->:
- 50泰雅()<-1817>:秀雅の子。大僧都法印。引退後は随解院と号す。
- 51信雅(1796-1850)<1817-1847>:真雅とも。1817年の就任とされるが、1816年の銘文には座主とある。大僧都法印。1850年10月12日死去。55歳。
- 52周雅()<1847-1868>:信雅の長男。大僧都法印。1868年、還俗して藤井高門と名乗り、宝満宮社務頭を称す。
- (台雅):周雅の子。龍王院と号す。藤井延彦か。
- (宗弁):明治1-2年頃、修験寺院に留まった十六坊は宝仲寺を称して前亀石坊宗弁を座主とした。明治3年9月の廃仏で還俗したとみられる。