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法界寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年12月28日 (月)
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==歴史== | ==歴史== | ||
- | + | [[file:日野薬師法界寺003.jpg|thumb|400px|阿弥陀堂]] | |
+ | 822年、藤原家宗が[[円仁]]から[[最澄]]作の薬師如来像を与えられ祀った。 | ||
1051年、日野資業がその小仏を新たに作った薬師如来像の胎内に納め、薬師堂を建てて法界寺とした。また資業は法界寺文庫を建てて諸書を集めた。 | 1051年、日野資業がその小仏を新たに作った薬師如来像の胎内に納め、薬師堂を建てて法界寺とした。また資業は法界寺文庫を建てて諸書を集めた。 | ||
『叡岳要記』(鎌倉時代)では藤原家宗ではなく藤原内麻呂とする。 | 『叡岳要記』(鎌倉時代)では藤原家宗ではなく藤原内麻呂とする。 | ||
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1096年、堂宇(名称不明)を建立(中右記)。 | 1096年、堂宇(名称不明)を建立(中右記)。 | ||
1120年8月22日、塔(規模不明)を建立(地鎮祭?)(中右記)。 | 1120年8月22日、塔(規模不明)を建立(地鎮祭?)(中右記)。 | ||
- | + | 北にある[[醍醐寺]]と寺領争いがあった。 | |
1118年に「阿弥陀堂」があったことが中右記にあるが現在の阿弥陀堂に該当するのかどうかは諸説ある。 | 1118年に「阿弥陀堂」があったことが中右記にあるが現在の阿弥陀堂に該当するのかどうかは諸説ある。 | ||
+ | この頃には5体の阿弥陀像が作られた記録があり、阿弥陀堂3〜5棟存在した可能性がある。 | ||
- | + | 1173年、[[親鸞]]がこの地で誕生。 | |
1221年、兵火で被災。1431年には醍醐寺と関係を持っており、天台宗から真言宗に転じていた可能性がある。 | 1221年、兵火で被災。1431年には醍醐寺と関係を持っており、天台宗から真言宗に転じていた可能性がある。 | ||
応仁年間(1467-1469)、香西又六の兵火で阿弥陀堂以外を焼失。 | 応仁年間(1467-1469)、香西又六の兵火で阿弥陀堂以外を焼失。 | ||
- | 天正年間(1573- | + | 天正年間(1573-1592)、[[織田信長]]の兵火で薬師堂焼失。 |
- | + | [[豊臣秀吉]]の命で醍醐寺末となり醍醐寺寺録のうちから100石を分配された。 | |
近世には子院8坊が交代で管理していた。 | 近世には子院8坊が交代で管理していた。 | ||
- | + | 1809年、庫裏を修造。この時、[[西本願寺]]が資金を支援。 | |
- | + | 1826年、西本願寺18世文如に親鸞の誕生地を「献上」。これを機に法界寺は西本願寺の「館入り」の身分を与えられ、雁の間に入ることを許された。 | |
+ | 1828年9月、西本願寺が有範堂を建立。これがのちに[[日野誕生院]]となった。 | ||
+ | 1829年10月、日野真夏の1000年忌を厳修。西本願寺19世広如が参拝。 | ||
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+ | 1904年、奈良県の旧伝燈寺(廃絶。龍田大社神宮寺)本堂(灌頂堂とも)を法界寺本堂として移築した。 | ||
(由緒書、『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか) | (由緒書、『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか) | ||
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==境内== | ==境内== | ||
- | * | + | *本堂:本尊は薬師如来。本尊は高さ80cmの秘仏で、胎内仏の薬師如来は最澄作と伝える。乳薬師と呼ばれ、安産・授乳の利益の信仰がある。日光・月光菩薩と十二神将も祀る。江戸時代の絵図には小さな草堂が描かれている。草堂が廃れた後は阿弥陀堂の阿弥陀仏の前に祀られていたようだ(『宇治誌』)。現本堂は1904年に奈良県の旧伝燈寺(廃絶。[[龍田大社]]神宮寺)本堂(灌頂堂とも)を移築したもので棟木銘にある1456年頃の造営とみられる。桁行五間・梁行四間、寄棟造、瓦葺で、前方の一間部分を一般参詣者の礼拝の場として格子戸で内部と結界する。薬師堂とも。 |
*阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。日野家霊屋や、日野資業・日野勝光・日野真夏の位牌などを祀る。本尊は平安時代後期作。像高2.8mの坐像丈六仏。定朝様式の典型例とされ、定朝作と伝える。飛天が舞う光背を背に、定印を結ぶ。寄木造で漆箔を施す。現在の阿弥陀堂は平安時代後期の建立当初のもので有数の古建築。浄土教建築の代表例として知られる。往時の法界寺を伝える唯一の堂宇。1226年以前の造営と推定されている。桁行五間・梁行五間の宝形造の檜皮葺。外周に吹き放ちの裳階と回縁を巡らす。内陣の長押の上の壁間には飛天壁画や阿弥陀壁画がある。内陣四隅の四天柱には金剛界曼荼羅の64尊が描かれている。 | *阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。日野家霊屋や、日野資業・日野勝光・日野真夏の位牌などを祀る。本尊は平安時代後期作。像高2.8mの坐像丈六仏。定朝様式の典型例とされ、定朝作と伝える。飛天が舞う光背を背に、定印を結ぶ。寄木造で漆箔を施す。現在の阿弥陀堂は平安時代後期の建立当初のもので有数の古建築。浄土教建築の代表例として知られる。往時の法界寺を伝える唯一の堂宇。1226年以前の造営と推定されている。桁行五間・梁行五間の宝形造の檜皮葺。外周に吹き放ちの裳階と回縁を巡らす。内陣の長押の上の壁間には飛天壁画や阿弥陀壁画がある。内陣四隅の四天柱には金剛界曼荼羅の64尊が描かれている。 | ||
*観音堂:廃絶 | *観音堂:廃絶 | ||
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*萱尾神社:祭神は大己貴命。鎮守。日吉大社の分社という。江戸時代に集落の氏神となっており現在は別組織。萱尾大明神。 | *萱尾神社:祭神は大己貴命。鎮守。日吉大社の分社という。江戸時代に集落の氏神となっており現在は別組織。萱尾大明神。 | ||
*法界寺文庫:日野資業が建てた。廃絶。旧蔵書も現存しない。 | *法界寺文庫:日野資業が建てた。廃絶。旧蔵書も現存しない。 | ||
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==子院== | ==子院== | ||
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*「角坊文書」:宮内庁書陵部蔵。 | *「角坊文書」:宮内庁書陵部蔵。 | ||
*「萱尾神社文書」: | *「萱尾神社文書」: | ||
- | * | + | *「四百年前社寺建物取調書 法界寺」[http://www.pref.kyoto.jp/gbunsho/y_top/page/p133.html][http://www.pref.kyoto.jp/gbunsho/y_top/page/p134.html][http://www.pref.kyoto.jp/gbunsho/y_top/page/p135.html][http://www.pref.kyoto.jp/gbunsho/y_top/page/p136.html][http://www.pref.kyoto.jp/gbunsho/y_top/page/p137.html] |
+ | *『親鸞聖人御児之御影略縁起』:法界寺刊。 | ||
+ | *田中教忠1889『山城国宇治郡日野法界寺略記并追考』 | ||
+ | *田中勘兵衛1933『日野誌』 | ||
*中野玄三1974『法界寺』 | *中野玄三1974『法界寺』 | ||
+ | *1985『改稿日野誌』 | ||
*1978『古寺巡礼京都29法界寺』 | *1978『古寺巡礼京都29法界寺』 | ||
*2008『古寺巡礼京都25法界寺』 | *2008『古寺巡礼京都25法界寺』 | ||
- | + | *宮崎円遵「本願寺と法界寺」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1051/miyazaki01/miyazaki1051f.pdf] | |
+ | *宮崎円遵「有範堂」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1051/miyazaki01/miyazaki1051g.pdf] | ||
+ | *宮崎円遵「日野別堂」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1051/miyazaki01/miyazaki1051h.pdf] | ||
+ | *岡村喜史「日野誕生院」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1051/hinoke01/05/1051f.pdf] | ||
+ | *「親鸞の誕生」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1173/02tanjou/1173e.pdf] | ||
+ | *「日野誕生院」[http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1173/01hino/1173d.pdf] | ||
*天野文雄1994「「角坊」箚記 : 宮内庁書陵部蔵「角坊文書」をめぐって」[http://id.nii.ac.jp/1026/00001107/] | *天野文雄1994「「角坊」箚記 : 宮内庁書陵部蔵「角坊文書」をめぐって」[http://id.nii.ac.jp/1026/00001107/] | ||
+ | *稲崎清子2013「法界寺阿弥陀堂荘厳画 : 飛天図の源流についての検討」[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81010430] | ||
*宮本圭造2018「面打角坊考」[http://doi.org/10.15002/00021734] | *宮本圭造2018「面打角坊考」[http://doi.org/10.15002/00021734] | ||
+ | *1923『宇治誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978674/67] | ||
+ | *1898『宇治郡名勝誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765425/114] | ||
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[[category:京都府]] | [[category:京都府]] |
2020年12月28日 (月) 時点における最新版
法界寺は、京都府京都市伏見区日野西大道町にある薬師信仰の寺院。本尊は薬師如来。日野家の菩提寺で、親鸞の誕生地でもある。真言宗醍醐派別格本山。日野薬師。山号は東光山。 日野誕生院が隣接。
目次 |
歴史
822年、藤原家宗が円仁から最澄作の薬師如来像を与えられ祀った。 1051年、日野資業がその小仏を新たに作った薬師如来像の胎内に納め、薬師堂を建てて法界寺とした。また資業は法界寺文庫を建てて諸書を集めた。 『叡岳要記』(鎌倉時代)では藤原家宗ではなく藤原内麻呂とする。
1081年、日野資業の子の日野実綱が娘(名前不詳。藤原宗忠母)の菩提のため観音堂を建立。 1089年、日野実政が法界寺別当(俗別当)に任命され、以来、日野家が別当を世襲。 1096年、堂宇(名称不明)を建立(中右記)。 1120年8月22日、塔(規模不明)を建立(地鎮祭?)(中右記)。 北にある醍醐寺と寺領争いがあった。 1118年に「阿弥陀堂」があったことが中右記にあるが現在の阿弥陀堂に該当するのかどうかは諸説ある。 この頃には5体の阿弥陀像が作られた記録があり、阿弥陀堂3〜5棟存在した可能性がある。
1173年、親鸞がこの地で誕生。 1221年、兵火で被災。1431年には醍醐寺と関係を持っており、天台宗から真言宗に転じていた可能性がある。 応仁年間(1467-1469)、香西又六の兵火で阿弥陀堂以外を焼失。 天正年間(1573-1592)、織田信長の兵火で薬師堂焼失。
豊臣秀吉の命で醍醐寺末となり醍醐寺寺録のうちから100石を分配された。 近世には子院8坊が交代で管理していた。 1809年、庫裏を修造。この時、西本願寺が資金を支援。 1826年、西本願寺18世文如に親鸞の誕生地を「献上」。これを機に法界寺は西本願寺の「館入り」の身分を与えられ、雁の間に入ることを許された。 1828年9月、西本願寺が有範堂を建立。これがのちに日野誕生院となった。 1829年10月、日野真夏の1000年忌を厳修。西本願寺19世広如が参拝。
1904年、奈良県の旧伝燈寺(廃絶。龍田大社神宮寺)本堂(灌頂堂とも)を法界寺本堂として移築した。
(由緒書、『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)
境内
- 本堂:本尊は薬師如来。本尊は高さ80cmの秘仏で、胎内仏の薬師如来は最澄作と伝える。乳薬師と呼ばれ、安産・授乳の利益の信仰がある。日光・月光菩薩と十二神将も祀る。江戸時代の絵図には小さな草堂が描かれている。草堂が廃れた後は阿弥陀堂の阿弥陀仏の前に祀られていたようだ(『宇治誌』)。現本堂は1904年に奈良県の旧伝燈寺(廃絶。龍田大社神宮寺)本堂(灌頂堂とも)を移築したもので棟木銘にある1456年頃の造営とみられる。桁行五間・梁行四間、寄棟造、瓦葺で、前方の一間部分を一般参詣者の礼拝の場として格子戸で内部と結界する。薬師堂とも。
- 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。日野家霊屋や、日野資業・日野勝光・日野真夏の位牌などを祀る。本尊は平安時代後期作。像高2.8mの坐像丈六仏。定朝様式の典型例とされ、定朝作と伝える。飛天が舞う光背を背に、定印を結ぶ。寄木造で漆箔を施す。現在の阿弥陀堂は平安時代後期の建立当初のもので有数の古建築。浄土教建築の代表例として知られる。往時の法界寺を伝える唯一の堂宇。1226年以前の造営と推定されている。桁行五間・梁行五間の宝形造の檜皮葺。外周に吹き放ちの裳階と回縁を巡らす。内陣の長押の上の壁間には飛天壁画や阿弥陀壁画がある。内陣四隅の四天柱には金剛界曼荼羅の64尊が描かれている。
- 観音堂:廃絶
- 五大堂:廃絶。
- 弁天社:
- 日野誕生院:現在は別組織だが、元は法界寺境内。
- 日野家墓地:
- 萱尾神社:祭神は大己貴命。鎮守。日吉大社の分社という。江戸時代に集落の氏神となっており現在は別組織。萱尾大明神。
- 法界寺文庫:日野資業が建てた。廃絶。旧蔵書も現存しない。
子院
- 照行坊
- 樹下坊
- 梅本坊
- 新坊
- 南坊
- 角坊:桃山時代の光盛は面打師として活躍し、文禄2年、豊臣秀吉から「天下一」号を与えられた。
- 井脇坊
- 真乗坊
資料
- 『中右記』
- 「鎌田(英)家文書」:井脇坊関係。
- 「岩城(頼)家文書」:梅本坊関係。
- 「鎌田(保)家文書」:照行坊関係。
- 「田中(彰)家文書」:
- 「角坊文書」:宮内庁書陵部蔵。
- 「萱尾神社文書」:
- 「四百年前社寺建物取調書 法界寺」[1][2][3][4][5]
- 『親鸞聖人御児之御影略縁起』:法界寺刊。
- 田中教忠1889『山城国宇治郡日野法界寺略記并追考』
- 田中勘兵衛1933『日野誌』
- 中野玄三1974『法界寺』
- 1985『改稿日野誌』
- 1978『古寺巡礼京都29法界寺』
- 2008『古寺巡礼京都25法界寺』
- 宮崎円遵「本願寺と法界寺」[6]
- 宮崎円遵「有範堂」[7]
- 宮崎円遵「日野別堂」[8]
- 岡村喜史「日野誕生院」[9]
- 「親鸞の誕生」[10]
- 「日野誕生院」[11]
- 天野文雄1994「「角坊」箚記 : 宮内庁書陵部蔵「角坊文書」をめぐって」[12]
- 稲崎清子2013「法界寺阿弥陀堂荘厳画 : 飛天図の源流についての検討」[13]
- 宮本圭造2018「面打角坊考」[14]
- 1923『宇治誌』[15]
- 1898『宇治郡名勝誌』[16]