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鑑真旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 713年(開元元年)、26歳で故郷の揚州に戻り、[[大明寺]]に住す。742年(唐の天宝元年、日本の天平14年)、戒師を探しに日本から入唐した栄叡と普照の請願を受け、訪日を決意。5度の失敗を経て、753年(天平勝宝5年)、6度目の渡海で成功する。失敗の間でも教化活動に励み、在唐中に多数の仏像を造立し、大蔵経を3部も写経、4万回に渡り授戒を行ったという。 | ||
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2016年6月25日 (土) 時点における版
鑑真(がんじん)(688-763)は、律宗の渡来僧。日本律宗の開祖。律宗南山派の開祖道宣の孫弟子。中国揚州江陽県の出身。淳于氏。東大寺戒壇院や唐招提寺を創建。天台宗の典籍を請来したことから天台宗第四祖とされることもある。著作は残していない。弟子に法進、思託、如宝がいる。墓所は唐招提寺にある。御影像が同寺御影堂、同寺開山堂、東大寺戒壇院千手堂などに祀られている。鑑真和上。通称は、過海大師、唐大和上。
目次 |
略歴
在唐時代
688年(唐の垂拱4年、日本の持統2年)に誕生。揚州・大雲寺智満に師事し出家。道宣弟子の道岸に菩薩戒を受け、長安の実際寺の戒壇で荊州南泉寺の弘景(恒景)から具足戒を受ける。弘景は章安灌頂の弟子でもあり、天台宗を教わる。長安と洛陽を行き来し、同門の融済だけでなく相部宗の義威や遠智にも学ぶ。 713年(開元元年)、26歳で故郷の揚州に戻り、大明寺に住す。742年(唐の天宝元年、日本の天平14年)、戒師を探しに日本から入唐した栄叡と普照の請願を受け、訪日を決意。5度の失敗を経て、753年(天平勝宝5年)、6度目の渡海で成功する。失敗の間でも教化活動に励み、在唐中に多数の仏像を造立し、大蔵経を3部も写経、4万回に渡り授戒を行ったという。
6度の渡海
- 743年(唐の天宝2年、日本の天平15年)6月(56歳):弟子一同が盟約して準備をしていたが、弟子の道航が素行不良の如海は連れて行かないように進言したところ、如海が「道航は海賊に通じている」と官庁に讒訴。一同は捉えられた。4カ月で釈放されたが、海には実際に海賊が多く、建造した船を没収されたことから停止。
- 743年(唐の天宝2年、日本の天平15年)12月(56歳):軍船を購入し、出港するが、狼溝浦(根溝浦)という地で暴風雨に会い遭難。寒波に苦しんだという。
- 744年(唐の天宝3年、日本の天平16年)1月(57歳):船を修理して、大坂山に至るが、停船できず、下嶼山に至る。1カ月の風待ちの後、出航して桑名山に向かうが、暴風に会い、船が大破する。水米が尽きて3日間飢える。
- この年、請われて越州、杭州、湖州、宣州などを巡教する。阿育王寺。越州の僧侶が渡海計画を官庁に密告。官庁は栄叡を逮捕。栄叡は死んだと偽って脱獄。
- 748年(唐の天宝7年、日本の天平20年)(61歳):揚州・崇福寺に滞在中、栄叡、普照が来訪。6月27日、寺をたち、新河から出航。常州界狼山を経て越州三塔山で1カ月滞在。暑風山でまた1カ月滞在の後、出航するが、暴風雨に阻まれる。皆、死を覚悟したが、沈没を免れた。水や食料が尽き、14日の漂流の後、岸に着き、3日後に摂州江にたどり着く。現地で州城に迎えられる。
- 大雲寺に滞在。万安州に行き、岸州に至る。開元寺に入る。悟州を経て、端州に着くが、端州龍興寺で栄叡が死去。詔州で法泉寺、開元寺に入るが、天宝9年、ここで普照と離別する。鑑真は明州の阿育王寺に向かう。この頃、失明する。吉州で祥彦が死去。揚州に帰り、龍興寺、崇福寺、大明寺、近光寺などで講じる。
- 753年(唐の天宝12年、日本の天平勝宝5年)(66歳):10月15日、近光寺滞在中、藤原清河を大使とする日本の遣唐使一行が訪問。19日、龍興寺を出て乗船。蘇州黄〓津に向かう。11月10日、副使の大伴胡麻呂は、妨害を恐れて、夜半、密かに乗船させる。13日、普照が乗船。15日、4船で出航。3船は暴風に会うが、鑑真の乗った第2船のみが無事に12月20日に薩摩国に至った。
来日後
753年(天平勝宝5年)、薩摩国坊津に上陸。翌年、平城京に入った。同年4月、東大寺大仏殿前に設けられた仮設の戒壇で聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇らに受戒。日本で初めて三師七証の授戒が行われた。翌年9月、東大寺戒壇院を創建。756年(天平勝宝8年)、大僧都に任命されたが、老齢のため退任。大和上となる。759年(天平宝字3年)、平城京右京五条二坊の地を与えられ、唐招提寺を創建した。
一覧
- 普陀山:風待ちで立ち寄る。
- 海南島:748年(天平20年)に渡海の失敗で漂着。
- 沖縄
- 種子島
- 屋久島
- 鑑真上陸地:鹿児島県南さつま市。薩摩国。
- 大宰府
- 東大寺唐禅院
- 東大寺戒壇院:1733年(享保18年)造立の重文木造鑑真像(唐招提寺にある乾漆像の模造)が千手堂に祀られている。
- 唐招提寺
- 鑑真墓
典籍
- 『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』:没後まもなく編纂された伝記。3巻。鑑真に随行して来日した思託が記した伝記。『大和上伝』『大和尚伝』ともいう。淡海三船の著作に対して『広伝』ともいう。現存せず、逸文しか伝わらない。
- 『唐大和上東征伝』:淡海三船が思託の著作を元に再編集した伝記。779年(宝亀10年)。1巻。『鑑真和尚東征伝』『鑑真過海大師東征伝』『過海大師東征伝』『東征伝』ともいう。思託の著作に対して『略伝』ともいう。
- 『鑑真和上三異事』:孫弟子にあたる唐招提寺5世豊安が記した伝記。
- 『東征伝絵巻』:戒律復興に尽力した忍性が制作した伝記絵巻。1298年(永仁6年)成立。『唐大和上東征伝』と『鑑真和上三異事』を元に制作された。唐招提寺に奉納。同寺に現存して重文。『東征絵巻』『東征絵伝』ともいう。