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神泉苑
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[file:shinsen-en_002.jpg|250px|thumb|江戸時代に復興した法成就池]] | [[file:shinsen-en_002.jpg|250px|thumb|江戸時代に復興した法成就池]] | ||
- | '''神泉苑'''(しんせんえん)は、[[平安京]]にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や[[密教]]修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に[[空海]]の請雨経法や[[八坂神社]]祇園祭につながる[[御霊会]]が有名。[[八坂神社関連旧跡]]。 | + | '''神泉苑'''(しんせんえん)は、[[平安京]]にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や[[密教]]修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に[[空海]]の請雨経法や[[八坂神社]]祇園祭につながる[[御霊会]]が有名。[[八坂神社関連旧跡]]。[[後七日御修法関連旧跡]]。 |
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江戸時代、1602年(慶長7年)5月の[[二条城]]造営で敷地を削られた。1607年(慶長12年)、快雅が復興して寺院とした。歴史的経緯から[[東寺宝菩提院]]が兼務することとなり、[[京都・護国寺]]と称した。 | 江戸時代、1602年(慶長7年)5月の[[二条城]]造営で敷地を削られた。1607年(慶長12年)、快雅が復興して寺院とした。歴史的経緯から[[東寺宝菩提院]]が兼務することとなり、[[京都・護国寺]]と称した。 | ||
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2019年1月13日 (日) 時点における版
神泉苑(しんせんえん)は、平安京にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や密教修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に空海の請雨経法や八坂神社祇園祭につながる御霊会が有名。八坂神社関連旧跡。後七日御修法関連旧跡。
歴史
『日本紀略』の800年(延暦19年)7月19日の桓武天皇行幸が初見。敷地の中心に大きな池があり、その北に正殿となる乾臨閣があった。824年(天長1年)、空海が善女龍王を祀り請雨経法を行ったとされるが裏付ける史料はない。
天皇貴族による饗宴が盛んに行われたが、斉衡年間以降は祈祷の霊場としての性格が強くなった。856年(斉衡3年)3月、常暁が太元帥法を行い、8月には勅使による有験呪者の試験場所となった。
863年(貞観5年)3月には宮中・中宮・神泉苑の3カ所で3日間の大般若経転読会、5月には御霊会、8月にも7日間の修法が行われた。
866年(貞観8年)5月、天台座主安慧(794-868)が七日間の請雨経法を実施。875年(貞観17年)6月、東寺長者の真雅(801-879)が請雨経法(『三代実録』)。以後、東寺系真言僧による祈雨が定着。聖宝・寛空・元杲・元真・仁海らが修法した。空海が神泉苑で祈雨した伝承が生まれたのもこの頃で、895年(寛平7年)の『贈大僧正空海和上伝記』に初めて逸話が記載され、『神泉苑絵巻』も描かれた。
旱魃の時には祈願だけでなく、農業用水として開放された。 1459年(長禄3年)、池のまわりの一部が菅原氏の所有となっている。
江戸時代、1602年(慶長7年)5月の二条城造営で敷地を削られた。1607年(慶長12年)、快雅が復興して寺院とした。歴史的経緯から東寺宝菩提院が兼務することとなり、京都・護国寺と称した。
後七日御修法の香水として神泉苑の池の水が使われたともいわれる。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)