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神泉苑
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''神泉苑'''(しんせんえん)は、[[平安京]]にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や[[密教]]修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に[[空海]]の請雨経法や[[八坂神社]]祇園祭につながる[[御霊会]]が有名。[[八坂神社関連旧跡]]。[[後七日御修法関連旧跡]]。 | '''神泉苑'''(しんせんえん)は、[[平安京]]にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や[[密教]]修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に[[空海]]の請雨経法や[[八坂神社]]祇園祭につながる[[御霊会]]が有名。[[八坂神社関連旧跡]]。[[後七日御修法関連旧跡]]。 | ||
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『日本紀略』の800年(延暦19年)7月19日の[[桓武天皇]]行幸が初見。敷地の中心に大きな池があり、その西畔に正殿となる乾臨閣があった。824年(天長1年)、空海が[[善女龍王]]を祀り請雨経法を行ったとされるが裏付ける史料はない。 | 『日本紀略』の800年(延暦19年)7月19日の[[桓武天皇]]行幸が初見。敷地の中心に大きな池があり、その西畔に正殿となる乾臨閣があった。824年(天長1年)、空海が[[善女龍王]]を祀り請雨経法を行ったとされるが裏付ける史料はない。 | ||
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===中世以降=== | ===中世以降=== | ||
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中世以降は衰退。1459年(長禄3年)、池のまわりの一部が一時[[菅原氏]]の所有となっている。 | 中世以降は衰退。1459年(長禄3年)、池のまわりの一部が一時[[菅原氏]]の所有となっている。 | ||
2019年1月13日 (日) 時点における版
古代の面影を偲ぶ現在の「神泉苑」(護国寺) | 皇城大内裏地図より |
神泉苑(しんせんえん)は、平安京にあった苑地。天皇や貴族が曲宴・観射・花宴・琴歌挿菊・避暑・七夕相撲・賦詩など数々の行事を開いた。神事や密教修法などの宗教行事もたびたび行われた。特に空海の請雨経法や八坂神社祇園祭につながる御霊会が有名。八坂神社関連旧跡。後七日御修法関連旧跡。
神泉苑は大極殿(八省院)の東南に位置した。神泉苑の西隣には大学寮や弘文院・勧学院などがあった。
歴史
古代
『日本紀略』の800年(延暦19年)7月19日の桓武天皇行幸が初見。敷地の中心に大きな池があり、その西畔に正殿となる乾臨閣があった。824年(天長1年)、空海が善女龍王を祀り請雨経法を行ったとされるが裏付ける史料はない。
天皇貴族による饗宴が盛んに行われたが、斉衡年間以降は祈祷の霊場としての性格が強くなった。856年(斉衡3年)3月、常暁が太元帥法を行い、8月には勅使による有験呪者の試験場所となった。
863年(貞観5年)3月には宮中・中宮・神泉苑の3カ所で3日間の大般若経転読会、8月にも7日間の修法が行われた。 同年5月の御霊会は天皇貴族を悩ませた怨霊と疫病を封じるために大規模に行われ、八坂神社祇園祭の起源にもなった。密教僧が深く関与した神事が行われ、神仏習合の歴史としても一つの画期となった。
866年(貞観8年)5月、天台座主安慧(794-868)が七日間の請雨経法を実施。875年(貞観17年)6月、東寺長者の真雅(801-879)が請雨経法(『三代実録』)。以後、東寺系真言僧による祈雨が定着。聖宝・寛空・元杲・元真・仁海らが修法した。空海が神泉苑で祈雨した伝承が生まれたのもこの頃で、895年(寛平7年)の『贈大僧正空海和上伝記』に初めて逸話が記載され、『神泉苑絵巻』も描かれた。 丹生川上神社・貴船神社と並んで祈雨修法の霊場となった。
施設を管理する神泉苑監という役職があったらしい。 旱魃の時には祈願だけでなく、農業用水として開放された。
『徒然草』によると、宮中真言院の後七日御修法で使われた毬杖(ぎっちょう)を1月15日に神泉苑へ持ち出して陰陽師が焼いたと記し、これが民俗宗教の「左義長」(どんと焼き、とんど焼き)の起源という説がある。 また後七日御修法の香水として神泉苑の池の水が使われたともいわれる。
中世以降
中世以降は衰退。1459年(長禄3年)、池のまわりの一部が一時菅原氏の所有となっている。
江戸時代、1602年(慶長7年)5月の二条城造営で敷地を削られた。1607年(慶長12年)、快雅が跡地の一部に苑池を復興して管理のための寺院を建てた。歴史的経緯から東寺宝菩提院が兼務することとなり、護国寺と称した。この寺は現在、「神泉苑」と称している。 また跡地の南端にある八坂神社境外末社の御供社(又旅社)も近世に祇園祭のための神泉苑の祭場として整備されたものと思われる。オハケ神事が行われ、神輿3基が渡御する。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)