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京都・光福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。 | *「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。 | ||
*「浄土常行六斎念仏興起」 | *「浄土常行六斎念仏興起」 |
2022年8月14日 (日) 時点における版
光福寺(こうふくじ)は、京都府京都市左京区田中上柳町にある浄土宗寺院。空也堂と共に六斎念仏の本山だった。京都近辺の六斎念仏講を配下に置いた。江戸時代、六斎念仏が芸能化していく中で、光福寺は念仏としての行事を守ろうとしたため、衰退したという。斎教院、安養殿。山号は干菜山。通称は干菜寺、乾菜寺(ほしなでら)。中世は西山派だったが、浄土宗知恩院派。(参考:同名寺院光福寺)
寺伝によると、山城国乙訓郡安養谷の東善寺が前身。 証空の3世法孫の道空が中興した。道空は寛元年間、春日烏丸に常行院を建て六斎念仏を始めたという。1267年とも。 天文年間、当時の住職の信光が、斎教院を開いた。1519年、後柏原天皇から六斎念仏の総本山に定められた。 1582年、宗心が現在地に移しさらに丹波にあった武蔵寺を合併させて、斎教院武蔵寺と称したという。 聚楽第時代の豊臣秀吉が鷹狩に付近に来た時に寺に滞在。しかし貧しい地であるため他に献上する物がなく、干し菜を出したところ、その誠意に感じるところがあり、寺産(寺領?)を下した。よって干菜寺と呼ばれるようになったという。秀吉は光福寺の名を与えた。1601年、火災。 1637年、知恩院末となった。 1645年6月、鎮守八幡宮の再建勧進のため「下鴨会式」で相撲を興行したがこれが京都での勧進相撲の始まりとされる(相撲大全)。 1861年、知恩院の法然遠忌で光福寺住職を導師に六斎念仏を行った(華頂山大法会図録)) (『日本歴史地名大系』ほか)
目次 |
組織
住職
- 道空()<>:伊達家出身という。証空、浄音、観智の法脈を継ぐという。東善寺を中興。常行院、光堂を兼務。1315年6月25日死去。1317年10月21日、法如の諡号を贈られた。紅蓮社諦誉心阿道空法如。
- 空察()<>:
- 察源()<>:
- 信光()<>:斎教院1世。
- 寿源()<>:斎教院2世。
- 1宗心(1541-1626)<>:斎教院3世。丹波出身。聖衆来迎寺の庭を作ったとの伝承がある。三蓮社光誉上人円阿月空宗心和尚
- 2真慶()<>:得蓮社涼誉実阿真慶和尚
- 3慶珍(?-1634)<>:澄蓮社真誉上人広阿慶珍和尚
- 4宗円()<>:栄蓮社貞誉化阿宗円和尚
- 5正慶(1672-1706)<>:単誉正慶和尚
- 6順栄()<>:順栄和尚
- 7正波()<>:正波和尚
- 8寿観(?-1796)<>:量誉寿観
- 9達誉()<>:
- 10真誉()<>:
- 18伊藤大寛()<>:
資料
古典籍
- 「浄土常修六斎念仏興起」:桃山時代。随心院門跡俊海(1651-1682)が1682年に書写して正慶に与えた。『民間念仏信仰研究資料集』[1]
- 「筆墨石山水伝」:宗心仮託。作庭。
- 「浄土常行六斎念仏興起」
- 「光福寺筆録」:1676年。正慶が編纂
- 「禁裏表誌事願件控并献上物控」:1751年。
- 「六斎支配村方控牒」:『民間念仏信仰研究資料集』[2]:1755年。140以上の講中を列挙する。
- 「光福寺作庭秘伝書」:寿観。1765年。
- 「諸用記録」:文化6年
- 「日次記事」:江戸時代初期
- 「干菜山光福寺縁起」
- 「開山法如上人略縁起」
- 「中興宗心上人略縁起」
- 「華頂山大法会図録」
- 『東北歴覧之記』:1681年。黒川道祐著。干菜寺の名前由来を収録。