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宝荘厳院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | 長承元年(1132)10月7日の落慶法要は鳥羽上皇隣席で行われた。仁平2年(1152)12月18日には[[蓮華蔵院]]と共に百体の金色阿弥陀の造仏供養が行われている。保元元年(1156)の保元の乱では焼失を免れたが、承久3年4月18日に焼失。以後、衰退して廃滅したらしい。元徳2年(1330)、[[後醍醐天皇]]が宝荘厳院を[[東寺]]に寄進。所領は東寺領となったが、その管理のための宝荘厳院方という組織が東寺内に作られ、東寺の運営に重要な役割を果たすことになる。(日本歴史地名大系、平安京創生館発行資料、世界大百科事典) | |
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2017年8月21日 (月) 時点における版
宝荘厳院(ほうしょうごんいん)は平安京郊外の白河殿に付属した鳥羽上皇の御願寺。九体阿弥陀を祀る伽藍があった。跡地ははっきりしないが白河北殿の西側、丸太町通と冷泉通の間にあったと考えられている(平安京創生館発行資料)。白河新阿弥陀堂とも呼ばれた。
歴史
長承元年(1132)10月7日の落慶法要は鳥羽上皇隣席で行われた。仁平2年(1152)12月18日には蓮華蔵院と共に百体の金色阿弥陀の造仏供養が行われている。保元元年(1156)の保元の乱では焼失を免れたが、承久3年4月18日に焼失。以後、衰退して廃滅したらしい。元徳2年(1330)、後醍醐天皇が宝荘厳院を東寺に寄進。所領は東寺領となったが、その管理のための宝荘厳院方という組織が東寺内に作られ、東寺の運営に重要な役割を果たすことになる。(日本歴史地名大系、平安京創生館発行資料、世界大百科事典)