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有智山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''有智山寺'''は、福岡県太宰府市の[[宝満山]]にあった[[天台宗]]寺院。古代の[[天台別院]]。[[最澄]]や[[円仁]]の旧跡で、[[六所宝塔]]の一つが建てられた。のち[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[竈門神社]]がある。'''大山寺'''、'''竈門山寺'''、'''内山寺'''、'''宝仲寺'''などとも呼ぶ。 | '''有智山寺'''は、福岡県太宰府市の[[宝満山]]にあった[[天台宗]]寺院。古代の[[天台別院]]。[[最澄]]や[[円仁]]の旧跡で、[[六所宝塔]]の一つが建てられた。のち[[聖護院]]末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、[[竈門神社]]がある。'''大山寺'''、'''竈門山寺'''、'''内山寺'''、'''宝仲寺'''などとも呼ぶ。 | ||
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+ | 平安時代から鎌倉時代には大山寺、有智山寺、内山寺と呼ばれた。 | ||
+ | 宝仲寺(宝中寺)の呼称が現れるのは江戸時代以降。 | ||
+ | 1657年、英彦山末となる。 | ||
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- | *48真雅()<1742-> | + | *46兼雅()<1689->:藤井甚太郎の親族。藩主黒田正之により南都[[五大院]]から招かれ、座主坊として楞伽院を創建。以後世襲となる。法印。 |
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- | *52周雅()< | + | *50泰雅()<-1817>:秀雅の子。大僧都法印。引退後は随解院と号す。 |
- | * | + | *51信雅(1796-1850)<1817-1847>:真雅とも。1817年の就任とされるが、1816年の銘文には座主とある。大僧都法印。1850年10月12日死去。55歳。 |
+ | *52周雅()<1847-1868>:信雅の長男。大僧都法印。1868年、還俗して藤井高門と名乗り、宝満宮社務頭を称す。 | ||
+ | *(台雅):周雅の子。龍王院と号す。藤井延彦か。 | ||
*(宗弁):明治1-2年頃、修験寺院に留まった十六坊は宝仲寺を称して前亀石坊宗弁を座主とした。明治3年9月の廃仏で還俗したとみられる。 | *(宗弁):明治1-2年頃、修験寺院に留まった十六坊は宝仲寺を称して前亀石坊宗弁を座主とした。明治3年9月の廃仏で還俗したとみられる。 | ||
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2019年9月28日 (土) 時点における版
有智山寺は、福岡県太宰府市の宝満山にあった天台宗寺院。古代の天台別院。最澄や円仁の旧跡で、六所宝塔の一つが建てられた。のち聖護院末となり、座主の格式を持ったが、明治維新で寺は廃絶。現在、竈門神社がある。大山寺、竈門山寺、内山寺、宝仲寺などとも呼ぶ。
目次 |
歴史
平安時代から鎌倉時代には大山寺、有智山寺、内山寺と呼ばれた。 宝仲寺(宝中寺)の呼称が現れるのは江戸時代以降。 1657年、英彦山末となる。 1665年、聖護院末となる。
1686年、英彦山と本末争論。 1696年和睦。
1868年、神仏分離令で座主などが還俗し神職となる。 山内が廃仏派と奉仏派に別れて争うこととなる。 1670年8月、廃仏毀釈が行われ、仏堂などが破壊される。廃絶となる。
組織
歴代別当
- 院範:頼清に別当職を奪われて憤死。
- 頼清:石清水八幡宮権別当。
- 光清:石清水八幡宮別当。
- 法薬:
- 元慶:『袋草紙』に名がある。
歴代座主
- 1役小角()<>:
- 2義道()<>:
- 3義〓()<>:
- 4智琢()<>:
- 5円澄()<>:
- 6慈英()<>:
- 7英澄()<>:
- 8宗秀()<>:
- 9湛淵()<>:
- 10良鎮()<>:
- 11浄戒()<>:
- 12浄珍()<>:
- 13浄周()<>:
- 14浄全()<>:
- 15隆搵()<>:
- 16隆賢()<>:
- 17隆範()<>:
- 18隆全()<>:
- 19良掩()<>:
- 20深雄()<>:
- 21浄雄()<>:
- 22浄鉄()<>:
- 23浄機()<>:
- 24機元()<>:
- 25湛然()<>:
- 26湛応()<>:
- 27浄応()<>:
- 28永雄()<>:
- 29永戒()<>:
- 30豪戒()<>:
- 31豪添()<>:
- 32豪湠()<>:
- 33揮雅()<>:
- 34揮禋()<>:
- 35浄湮()<>:
- 36隆春()<>:
- 37隆湮()<>:
- 38隆全()<>:
- 39隆円()<>:
- 40隆曇()<>:
- 41隆成()<1554-1589?>:座主中絶
- 42重円()<1593-1597>:座主42世とされる。小早川隆景が任命。平石坊。
- 43幸覚()<1597->:以後輪番。
- (衆頭)(幸吟)(-1645)<1616-1638>:1616年、20歳余りで衆頭となる。 1638年退任。1645年に衆頭に再任。同年7月22日(23日とも)、秋峰の行中、福泉坊玉蔵に殺害された。
- (衆頭)(幸伝)(-1645)<1639-1645>:
- (衆頭)(幸吟)(-1645)<1645-1645>:
- 44幸重(1595-1675)<1634-1672>:平石坊。1645年、衆頭を兼ねる。1672年、老齢で隠退。1675年5月、死去。81歳。
- 45弘有()<1672-1688>:平石坊。1658年、衆頭となる。1672年、座主。英彦山末から離脱を図り聖護院末となる。福岡藩と争論があり、その折衝を貝原益軒が担当している。具体的な内容は不明だが、当時、英彦山が離脱した宝満山の違反を福岡藩に強硬に訴えていた。1688年2月2日、福岡藩は禁錮の処分を下し、追放した。平石坊は廃絶。
- 46兼雅()<1689->:藤井甚太郎の親族。藩主黒田正之により南都五大院から招かれ、座主坊として楞伽院を創建。以後世襲となる。法印。
- 47秀雅()<1713-1742>:権大僧都。
- 48真雅()<1742-1774>:権大僧都法印。
- 49兼雅()<1774-1792>:建雅に改名。権大僧都法印。福岡藩と揉めたのか、1792年頃に引退させられた。
- (秀雅)再任()<1792->:
- 50泰雅()<-1817>:秀雅の子。大僧都法印。引退後は随解院と号す。
- 51信雅(1796-1850)<1817-1847>:真雅とも。1817年の就任とされるが、1816年の銘文には座主とある。大僧都法印。1850年10月12日死去。55歳。
- 52周雅()<1847-1868>:信雅の長男。大僧都法印。1868年、還俗して藤井高門と名乗り、宝満宮社務頭を称す。
- (台雅):周雅の子。龍王院と号す。藤井延彦か。
- (宗弁):明治1-2年頃、修験寺院に留まった十六坊は宝仲寺を称して前亀石坊宗弁を座主とした。明治3年9月の廃仏で還俗したとみられる。