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筥崎宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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かつては大宮司がいた。神宮寺は座主坊を'''大奥山五智輪院弥勒寺'''といい、真言宗であった。本社の南西に隣接していた。弥勒如来(恵光院に現存)を本尊とし、薬師如来、観音菩薩を脇本尊とした。ほかに瑠璃山医王密寺恵光院(本尊は薬師如来。一山の菩提寺)、赤幡坊(五智輪院の隣)、宝池山蓮城坊(1682年(天和2年)に放生池のそばに遷す)、円台坊、智禅坊、学頭坊、勧進坊、一乗坊、一御燈坊、二御燈坊、宝幢山勝楽寺(臨済宗。かつては筥崎宮の神宮寺)などがあった。このうち恵光院と勝楽寺が現存している。 | かつては大宮司がいた。神宮寺は座主坊を'''大奥山五智輪院弥勒寺'''といい、真言宗であった。本社の南西に隣接していた。弥勒如来(恵光院に現存)を本尊とし、薬師如来、観音菩薩を脇本尊とした。ほかに瑠璃山医王密寺恵光院(本尊は薬師如来。一山の菩提寺)、赤幡坊(五智輪院の隣)、宝池山蓮城坊(1682年(天和2年)に放生池のそばに遷す)、円台坊、智禅坊、学頭坊、勧進坊、一乗坊、一御燈坊、二御燈坊、宝幢山勝楽寺(臨済宗。かつては筥崎宮の神宮寺)などがあった。このうち恵光院と勝楽寺が現存している。 | ||
===宮司=== | ===宮司=== | ||
- | *末永茂世(1837-1915)<> | + | *末永茂世(1837-1915)<1885->:国学者。歌人。福岡藩士。権大属兼和歌引立掛を経て1885年筥崎宮宮司。末永茂一郎。末永景賢。笛廼舎と号す。編著に『函崎要記』、『筑前旧志略』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766666][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766667/]。 |
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- | *葦津磯夫(1840-1902)<> | + | *葦津磯夫(1840-1902)<>:福岡藩士。明治35年10月30日死去。63歳。 |
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+ | *葦津洗造()<1908->:1904年11/7高良大社宮司。1908/6/23筥崎宮宮司。 | ||
*木庭保久()<1902->:[[竈門神社]]宮司から転任。 | *木庭保久()<1902->:[[竈門神社]]宮司から転任。 | ||
- | *幡掛正木(1888-1954)<> | + | *行弘糺()<-1930->:[[稜威会]]。[[鵠沼稲荷神社]]宮司。 |
+ | *幡掛正木(1888-1954)<>:稜威会。 | ||
*田村克喜()<>: | *田村克喜()<>: | ||
- | * | + | *56田村靖邦(1943-)<1986-2019>:国学院大学神道研修部専攻科卒。明治神宮、筥崎宮に奉職。1986年から宮司。2001年福岡県神社庁長。 |
+ | *57田村邦明(1968-)<2019->:田村靖邦の長男。2001年権宮司。2019/4/1宮司。 | ||
===権宮司=== | ===権宮司=== |
2020年10月15日 (木) 時点における版
筥崎宮 はこざきぐう | |
概要 | 八幡大神の神徳の一つである「外寇鎮護」を象徴する八幡宮。 応神天皇の胞衣塚に鎮座する。 |
祭神 |
(筥崎宮ウェブサイト) |
所在地 | 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1 |
所在地(旧国郡) | 筑前国那珂郡 |
社格など | 式内社・名神大社・筑前国一宮・官幣大社・別表神社 |
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目次 |
概要
筥崎宮(はこざき・ぐう)は、福岡県福岡市東区にある応神天皇の胞衣塚に鎮座する八幡宮。式内社・名神大社・筑前国一宮・官幣大社・別表神社。祭神は「応神天皇、神功皇后、玉依姫命」である(筥崎宮ウェブサイト)。宇佐八幡宮五所別宮の一つ。最澄が計画した六所宝塔の一つがあった。石清水八幡宮別宮の一つ。筥崎宮関連旧跡も参照。
由緒
葦津浦に応神天皇の胎盤を筥にいれて埋納し、松を植えたのが箱崎の地名の由来とされる。これとは別に宇佐八幡宮五所別宮の一つで、神功皇后凱旋後の行在所跡に建てられたという大分八幡宮があり、これを箱崎の地に遷座したものとされる。921年(延喜21年)、藤原真材が箱崎に社殿を造営するように命じ、異国からの防護を宣言する神託を受けた。勅許を得て、醍醐天皇より「敵国降伏」の宸筆が下されて、社殿が造営され、923年(延長1年)に大分八幡宮より遷座した。遷座の理由として託宣は三点を挙げている。一つ目は大分八幡宮に参詣する官吏が道中に宝満宮(竈門神社)の前を横切ってしまうのは畏れ多いこと、二つ目は参拝のために険しい山を越えないといけないため参拝者を煩わせてしまうこと、三つ目は、放生会を行うには山間部ではなく海が相応しいことであった。これらとは別に、759年(天平宝字3年)の創建という説もある。
歴史
古代には官社に列格し、『延喜式』所載の名神大社となり「八幡大菩薩筥崎宮」と記されている。『延喜式』に収録されたことから考えると、実際の創建は延喜年間をさらに遡るのだろう。937年(承平7年)には、最澄が宇佐八幡宮に建立される予定だった六所宝塔の一、安南宝塔が建立された(2009年(平成21年)に宇佐神宮境内に再建された。)。中世、1265年(文永2年)焼失、1280年(弘安3年)焼失。1274年(文永11年)の元寇のとき、蒙古軍によって社殿は焼失し、ご神体は避難して、宇美の宇美八幡宮に遷座、さらに宇美障子丘の極楽寺に遷座したという。極楽寺の跡地には箱崎八幡宮が鎮座している。1275年(建治1年)の再建のとき、亀山上皇は「敵国降伏」の宸筆を寄進した。
1434年(永享6年)焼失、文明年間ごろに大内持世が再建している。享禄年間に焼失し、大内義隆が天文年間に造営した。現在の社殿である。しかしこのとき費用が賄えず、すぐには遷座が行われなかった。1546年(天文15年)、豊臣秀吉が九州征討のとき当社を本陣とし、そのとき、遷座祭費用が寄進され遷座が実施された。江戸時代、1600年(慶長5年)、黒田長政が福岡藩を立てると、500石が寄進された。1675年(延宝3年)、放生会再興。1701年(元禄14年)、神幸再興した。近代に入り、1872年(明治5年)4月、県社に列格し、1885年(明治18年)4月22日、官幣中社に昇格し、1914年(大正3年)1月14日、官幣大社に昇格した。
社殿構成
社殿は博多湾に向かって西北面している。鴨長明はこれを異国降伏のためとしている(『文字鎖』)。本殿は九間社流造と巨大で、1546年(天文15年)に大内義隆が造営したものである。社殿の正面脇には胞衣を埋納したという筥松がある。あるいは筥松の下には応神天皇が埋納したという戒定慧の三学の箱があるともいう。境内社としては、莵道稚郎子命、若八幡、仁徳天皇他多数を祀る東末社や仲哀天皇、高良玉垂命、仁徳天皇、若姫、宇礼姫他多数を祀る西末社などがある。江戸時代には本地堂(阿弥陀如来)と護摩堂が本社の背後にあった。また近年、亀山上皇尊像奉安殿が建立される予定である。参道の突き当たりになる博多湾を臨む浜を箱崎浜といい、お潮井浜とも呼び、千代の松原が広がる。そこに御旅所である浜宮がある。福岡県神社庁がある。旧御旅所として沖浜恵比須神社や、玉取祭が行われる玉取恵比須神社が境外にある。また筥崎宮の鳥居は特徴的な形をしており、その形式は筥崎鳥居と呼ばれている。
例祭は9月12から18日の放生会大祭で、神幸がある。1月3日の玉取祭、12月31日の御胞衣祭がある。
組織
かつては大宮司がいた。神宮寺は座主坊を大奥山五智輪院弥勒寺といい、真言宗であった。本社の南西に隣接していた。弥勒如来(恵光院に現存)を本尊とし、薬師如来、観音菩薩を脇本尊とした。ほかに瑠璃山医王密寺恵光院(本尊は薬師如来。一山の菩提寺)、赤幡坊(五智輪院の隣)、宝池山蓮城坊(1682年(天和2年)に放生池のそばに遷す)、円台坊、智禅坊、学頭坊、勧進坊、一乗坊、一御燈坊、二御燈坊、宝幢山勝楽寺(臨済宗。かつては筥崎宮の神宮寺)などがあった。このうち恵光院と勝楽寺が現存している。
宮司
- 末永茂世(1837-1915)<1885->:国学者。歌人。福岡藩士。権大属兼和歌引立掛を経て1885年筥崎宮宮司。末永茂一郎。末永景賢。笛廼舎と号す。編著に『函崎要記』、『筑前旧志略』[1][2]。
- 葦津磯夫(1840-1902)<>:福岡藩士。明治35年10月30日死去。63歳。
- 葦津洗造()<1908->:1904年11/7高良大社宮司。1908/6/23筥崎宮宮司。
- 木庭保久()<1902->:竈門神社宮司から転任。
- 行弘糺()<-1930->:稜威会。鵠沼稲荷神社宮司。
- 幡掛正木(1888-1954)<>:稜威会。
- 田村克喜()<>:
- 56田村靖邦(1943-)<1986-2019>:国学院大学神道研修部専攻科卒。明治神宮、筥崎宮に奉職。1986年から宮司。2001年福岡県神社庁長。
- 57田村邦明(1968-)<2019->:田村靖邦の長男。2001年権宮司。2019/4/1宮司。
権宮司
- 田村邦明()<>:
参考文献
『筑前国続風土記』、『筑前名所図会』、『神道大辞典』、『神仏分離史料』、『福岡県神社誌』、筥崎宮ウェブサイト