ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

筥崎宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年5月24日 (火)

移動: 案内, 検索
筥崎宮
はこざきぐう
Hakozaki-gu 02.jpg
概要 八幡大神の神徳の一つである「外寇鎮護」を象徴する八幡宮。 応神天皇の胞衣塚に鎮座する。
祭神
  • 応神天皇
  • 神功皇后
  • 玉依姫命

(筥崎宮ウェブサイト)

所在地 福岡県福岡市東区箱崎1-22-1
所在地(旧国郡) 筑前国那珂郡
社格など 式内社名神大社筑前国一宮官幣大社別表神社
関連記事

目次

概要

筥崎宮(はこざき・ぐう)は、福岡県福岡市東区にある応神天皇の胞衣塚に鎮座する八幡宮式内社名神大社筑前国一宮官幣大社別表神社。祭神は「応神天皇、神功皇后、玉依姫命」である(筥崎宮ウェブサイト)。宇佐八幡宮五所別宮の一つ。最澄が計画した六所宝塔の一つがあった。石清水八幡宮別宮の一つ。筥崎宮関連旧跡も参照。

由緒

葦津浦に応神天皇の胎盤を筥にいれて埋納し、松を植えたのが箱崎の地名の由来とされる。これとは別に宇佐八幡宮五所別宮の一つで、神功皇后凱旋後の行在所跡に建てられたという大分八幡宮があり、これを箱崎の地に遷座したものとされる。921年(延喜21年)、藤原真材が箱崎に社殿を造営するように命じ、異国からの防護を宣言する神託を受けた。勅許を得て、醍醐天皇より「敵国降伏」の宸筆が下されて、社殿が造営され、923年(延長1年)に大分八幡宮より遷座した。遷座の理由として託宣は三点を挙げている。一つ目は大分八幡宮に参詣する官吏が道中に宝満宮(竈門神社)の前を横切ってしまうのは畏れ多いこと、二つ目は参拝のために険しい山を越えないといけないため参拝者を煩わせてしまうこと、三つ目は、放生会を行うには山間部ではなく海が相応しいことであった。これらとは別に、759年(天平宝字3年)の創建という説もある。

歴史

古代には官社に列格し、『延喜式』所載の名神大社となり「八幡大菩薩筥崎宮」と記されている。『延喜式』に収録されたことから考えると、実際の創建は延喜年間をさらに遡るのだろう。937年(承平7年)には、最澄が宇佐八幡宮に建立される予定だった六所宝塔の一、安南宝塔が建立された(2009年(平成21年)に宇佐神宮境内に再建された。)。中世、1265年(文永2年)焼失、1280年(弘安3年)焼失。1274年(文永11年)の元寇のとき、蒙古軍によって社殿は焼失し、ご神体は避難して、宇美の宇美八幡宮に遷座、さらに宇美障子丘の極楽寺に遷座したという。極楽寺の跡地には箱崎八幡宮が鎮座している。1275年(建治1年)の再建のとき、亀山上皇は「敵国降伏」の宸筆を寄進した。

1434年(永享6年)焼失、文明年間ごろに大内持世が再建している。享禄年間に焼失し、大内義隆が天文年間に造営した。現在の社殿である。しかしこのとき費用が賄えず、すぐには遷座が行われなかった。1546年(天文15年)、豊臣秀吉が九州征討のとき当社を本陣とし、そのとき、遷座祭費用が寄進され遷座が実施された。江戸時代、1600年(慶長5年)、黒田長政が福岡藩を立てると、500石が寄進された。1675年(延宝3年)、放生会再興。1701年(元禄14年)、神幸再興した。近代に入り、1872年(明治5年)4月、県社に列格し、1885年(明治18年)4月22日、官幣中社に昇格し、1914年(大正3年)1月14日、官幣大社に昇格した。

社殿構成

筥松 筥崎宮の発祥地。
お潮井浜

社殿は博多湾に向かって西北面している。鴨長明はこれを異国降伏のためとしている(『文字鎖』)。本殿は九間社流造と巨大で、1546年(天文15年)に大内義隆が造営したものである。社殿の正面脇には胞衣を埋納したという筥松がある。あるいは筥松の下には応神天皇が埋納したという戒定慧の三学の箱があるともいう。境内社としては、莵道稚郎子命、若八幡、仁徳天皇他多数を祀る東末社や仲哀天皇、高良玉垂命、仁徳天皇、若姫、宇礼姫他多数を祀る西末社などがある。江戸時代には本地堂(阿弥陀如来)と護摩堂が本社の背後にあった。また近年、亀山上皇尊像奉安殿が建立される予定である。参道の突き当たりになる博多湾を臨む浜を箱崎浜といい、お潮井浜とも呼び、千代の松原が広がる。そこに御旅所である浜宮がある。福岡県神社庁がある。旧御旅所として沖浜恵比須神社や、玉取祭が行われる玉取恵比須神社が境外にある。また筥崎宮の鳥居は特徴的な形をしており、その形式は筥崎鳥居と呼ばれている。

例祭は9月12から18日の放生会大祭で、神幸がある。1月3日の玉取祭、12月31日の御胞衣祭がある。

組織

かつては大宮司がいた。神宮寺は座主坊を大奥山五智輪院弥勒寺といい、真言宗であった。本社の南西に隣接していた。弥勒如来(恵光院に現存)を本尊とし、薬師如来、観音菩薩を脇本尊とした。ほかに瑠璃山医王密寺恵光院(本尊は薬師如来。一山の菩提寺)、赤幡坊(五智輪院の隣)、宝池山蓮城坊(1682年(天和2年)に放生池のそばに遷す)、円台坊、智禅坊、学頭坊、勧進坊、一乗坊、一御燈坊、二御燈坊、宝幢山勝楽寺(臨済宗。かつては筥崎宮の神宮寺)などがあった。このうち恵光院と勝楽寺が現存している。

大宮司

794年には大宮司が置かれていたが人名は不明。「筥崎宮神主」の秦則重の史料に残る。 神主家には大宮司の秦氏の他、大神氏安部氏藤原氏大中臣氏らがいた。大宮司はのち田村家を名乗る。

  • 1秦遠範(生没年不詳)
  • 秦親重()<-1187->:源平合戦で平家側に付く。
  • 秦重広()<-1216->:
  • 19秦重仲()<-1354->:
  • 秦重政()<-1362->:
  • 秦弘重()<-1559->:
  • 村田重貞()<>:
  • 田村重成()<>:
  • 田村重郷()<>:

大検校

石清水八幡宮別当が兼務する。1185年(文治1年)任命の道清が初代で戦国時代まで続く。

座主

石清水八幡宮配下の留守官。明治に還俗して筑紫家を名乗る。

  • 行遍()<-1219->:
  • 親恵()<-1289->:五智輪院。1289年(正応2年)、筥崎宮に下向。のち帰京。
  • 孝済()<>:五智輪院。在京。筥崎宮に赴任せず。天文年間。
  • 尊清()<>:五智輪院。菅氏長者東坊城長淳の甥。筥崎宮に下向。
  • 麟清()<>:二条家出身。
  • 方清()<1578-1594?>:立花道雪の子。芳清とも。
  • 豪清()<1595?->:
  • 乗清()<1605->:
  • 正範()<>:
  • 盛範

宮司

歴代 生没年 在職年 略歴
末永茂世 1837-1915 1885-1887 国学者。歌人。福岡藩士。権大属兼和歌引立掛を経て1885年(明治18年)から1887年(明治20年)まで筥崎宮宮司。末永茂一郎。末永景賢。笛廼舎と号す。編著に『函崎要記』、『筑前旧志略』[1][2]
葦津磯夫 1840-1902 1887-1902 福岡藩士。祝部を世襲した社家の一つ大神家の出身。筥崎宮神職大神嘉納の子。兄に大三輪朝兵衛がいる。葦津耕次郎の父。福岡県会議員や福岡県立農学校長を経て1873年(明治6年)8月14日、生国魂神社禰宜兼権中講義。1874年(明治7年)7月23日、太宰府神社権宮司。1875年(明治8年)5月29日退任。1887年(明治20年)6月15日、筥崎宮宮司兼香椎宮宮司。1897年(明治30年)6月25日、香椎宮宮司兼務を解く。1902年(明治35年)10月30日死去。63歳。大神国彦。
木庭保久 1845-1926 1902- 熊本出身。1845年(弘化2年)生。江戸で平田鉄胤に師事。1874年(明治7年)錦山神社社掌兼小幡神社社掌だったが1876年(明治9年)10月24日、神風連の乱に加わる。27日、高津運記(青井阿蘇神社神職。死刑)や緒方弘国(のち八代宮宮司)と共に自首。12月3日、熊本臨時裁判所で終身刑の判決。1879年(明治12年)3月、一等減刑。1881年(明治14年)10月、一等減刑。1883年(明治16年)5月9日、放免となる。1884年(明治17年)11月4日、伊勢神宮宮掌。1888年(明治21年)5月16日、神宮主典。1896年(明治29年)正八位。神宮皇学館教授。1901年(明治34年)10月31日、竈門神社宮司。1902年(明治35年)10月11日、筥崎宮宮司。1908年(明治41年)6月23日から1916年(大正5年)10月13日まで八代宮宮司。1926年(昭和1年)7月2日死去。著書に『丙子変動記』『松山蓙』『祝詞私考』。
葦津洗造 1875-1927 1908-1927 1875年(明治8年)生。葦津磯夫の長男。葦津耕次郎の兄。神宮皇学館卒。1904年(明治37年)11月7日、高良大社宮司。1908年(明治41年)6月23日筥崎宮宮司。1913年(大正2年)福岡県神職会副会長。1927年(昭和2年)1月3日死去。
52 田村重次 1864-1932 1927-1929 1864年(元治1年)生まれ。1927年(昭和2年)筥崎宮宮司。1929年(昭和4年)退任。1932年(昭和7年)死去。
53 行弘糺( 1887-1976 1929-1932 稜威会。福岡県出身。1887年(明治20年)生。1912年(大正1年)国学院大学卒。1913年(大正2年)筥崎宮主典。1927年(昭和2年)禰宜。1929年(昭和4年)宮司。1932年(昭和7年)6月28日、気比神宮宮司。1933年(昭和8年)稲荷講社講師。1941年(昭和16年)大政翼賛会中央訓練所嘱託。1944年(昭和19年)国民総力朝鮮連盟嘱託。1948年(昭和23年)鵠沼稲荷神社宮司。1976年(昭和51年)7月3日死去。著書『禊錬成読本』。
54 幡掛正木 1888-1954 1932-1954 稜威会。1888年(明治21年)生。1914年(大正3年)、国学院大学国史科卒。神宮神部署福岡支署長。神宮奉斎会福岡県本部長。1927年(昭和2年)宗像大社宮司。1932年(昭和7年)6月28日、筥崎宮宮司。1954年(昭和29年)退任。1954年(昭和29年)死去。
55 田村克喜 1906- 1954-1986 田村重次の子。1906年(明治39年)生。1926年(昭和1年)国学院大学高等師範部卒。1929年(昭和4年)筥崎宮主典。1939年(昭和14年)高良大社禰宜。1940年(昭和15年)全国神職会主事。1943年(昭和18年)福井神社宮司。1946年(昭和21年)10月14日、高良大社権宮司。1954年(昭和29年)、筥崎宮権宮司。1954年(昭和29年)8月12日、筥崎宮宮司代務者。同年9月20日、筥崎宮宮司。1986年(昭和61年)退任。著書に『戦場の祭典』。
56 田村靖邦 1943- 1986-2019 1943年(昭和18年)生。田村克喜の長男。1966年(昭和41年)国学院大学経済学部卒。1967年(昭和42年)神道学専攻科卒。同年、明治神宮出仕。1972年(昭和47年)権禰宜。1973年(昭和48年)筥崎宮権禰宜。1975年(昭和50年)禰宜。1976年(昭和51年)権宮司。1986年(昭和61年)から2019年(令和1年)まで宮司。2001年(平成13年)福岡県神社庁長。
57 田村邦明 1968- 2019- 田村靖邦の長男。2001年(平成13年)権宮司。2019年(令和1年)4月1日、宮司。

権宮司

  • 田村克喜()<1954-1954>:
  • 池浦秀昌()<1954->:1954年(昭和29年)権宮司。
  • 田村靖邦()<1976-1986>:
  • 田村邦明()<2001-2019>:

資料

『筑前国続風土記』 『筑前名所図会』 『神道大辞典』 『神仏分離史料』 『福岡県神社誌』 筥崎宮ウェブサイト

  • 『古事類苑』「筥崎宮」[3]
  • 『筥崎宮誌』[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%AD%A5%E5%B4%8E%E5%AE%AE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール