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白峰寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
白峰寺(しろみねじ)は、愛媛県坂出市にある崇徳天皇ゆかりの真言宗寺院。四国八十八所霊場第81番札所。崇徳天皇陵が隣接する。本尊は千手観音。真言宗御室派。白峯寺。山号は綾松山。
歴史
815年(弘仁6年)、空海が白峰山に登り、如意宝珠を埋め、閼伽井を掘ったという。 860年(貞観2年)10月、瀬戸海に流木が出現し、光明を放ち香りをただよわせた。讃岐国司は唐から帰国して金倉寺にいた円珍に調べさせたところ、円珍はこの山で白髪の翁に遭った。翁は地主神で神託をなし、円珍は流木を彫って千手観音を祀った。
1156年(保元1年)、保元の乱に敗れた崇徳天皇は讃岐に配流となり、1164年(長寛2年)8月26日に鼓岡の木丸御所で崩御した。遺詔により白峰山の稚児嶽で火葬し陵墓を築いた。 1166年(仁安1年)西行が陵墓を参詣した。平時忠も参詣した。
崇徳院はたびたび霊異を示したので歴代の天皇武家が崇敬した。1191年(建久2年)、崇徳院近臣の章実が木丸御所を陵墓に移築して法華三昧堂(霊廟)とし、崇徳院御影画像を祀ったという。『玉葉』1191年(建久2年)閏12月14日条によると、後白河上皇の病気平癒祈願のため、崇徳上皇と安徳天皇の没地に堂宇を建て菩提を弔うように命じられている。また後嵯峨天皇の勅願で千手院堂を建立したとされる。 1278年(弘安1年)十三重石塔建立。1324年(正中1年)十三重石塔建立。 1267年(文永4年)銘の石灯籠や1321年(元亨1年)銘の下乗石もある。
1374年(文中3年/応安7年)細川頼之が崇徳院御影堂法楽和歌を奉納。以後、法楽和歌の奉納がたびたび行われるようになる。 1382年(弘和2年/永徳2年)落雷で焼失。 1387年(元中4年/嘉慶1年)細川頼之が白牛寺の本尊を迎えて再興した。 1414年(応永21年)12月21日、細川満元の請願、足利義持の執奏で後小松天皇は霊廟に「頓証寺」の号を贈り、勅額を奉納した。 1586年(天正14年)、仙石秀久が寺領100石を寄進。生駒氏は50石を寄進した。 1680年(延宝8年)、藩主松平頼重が現在の頓証寺殿を再建。
1599年(慶長4年)現在の本堂再建 1811年(文化8年)現在の大師堂再建。
1868年(明治1年)8月25日、崇徳院霊廟の御霊代である御影を京都白峰神宮に迎えるため、明治天皇の勅使が参向。付属の霊宝類も持ち帰る予定だったが、白峰寺住職はこれに抗して遺愛の笙以外は残された。 しかし1873年(明治6年)10月、住職が還俗して陵墓の陵掌となり、寺は無住となった。 1875年(明治8年)4月、堂塔の撤去を申請するまでに至った。 1877年(明治10年)3月、金刀比羅宮は、霊廟を改め神社とし、金刀比羅宮の摂社とすることを内務省に請願。翌年3月に許可され、4月に霊廟は金刀比羅宮摂社の白峰神社となった。そして霊宝が金刀比羅宮に引き渡された。地元はこれを憂い、1898年(明治31年)9月、霊廟は白峰寺に返還された。白峰神社の神霊は金刀比羅宮境内に遷座し、新たに社殿が建てられた。
境内
- 本堂
- 大師堂
- 瑜祇塔
- 善女龍王社
- 地蔵堂
- 阿弥陀堂
- 行者堂
- 薬師堂
- 回向堂
- 鐘楼堂
- 九社明神
- 弁財天
- 護摩堂
- 本坊
- 客殿
- 稲荷
- 十三重石塔
- 十三重石塔