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岩手護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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岩手護国神社(いわて・ごこくじんじゃ)は、岩手県盛岡市の盛岡八幡宮内にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。官祭招魂社。内務大臣指定護国神社。岩手招魂社。仁王招魂社。占領期には岩手神社と改称した。
目次 |
祭神
- 2柱(創建時1869年(明治2年)11月2日)
- 10柱:明治14年[1]人名あり
- 3万5394柱(靖国神社百年史)
- 3万5772柱(全国護国神社一覧)
官祭祭神
- 01:目時隆之進政明:盛岡藩。墓所は盛岡東顕寺。
- 02:中島源蔵常明:盛岡藩。墓所は盛岡法華寺。
- 03:三好監物清房:仙台藩。墓所は一関市藤沢町。
- 04:福田栄之助:長崎。梅ケ崎招魂社祭神。墓所は広養寺官修墳墓。
- 05:江崎佐平治:佐賀藩。墓所は祥雲寺官修墳墓。
- 06:小西周右衛門光信:岡山藩。岡山県護国神社祭神。墓所は常安寺官修墳墓。
- 07:梅田梅之丞正行:山口藩。水夫。墓所は鍬ケ崎官修墳墓。
- 08:六助:戊辰丸水夫。阿波国出身。墓所は鍬ケ崎官修墳墓。
- 09:甚吉:戊辰丸水夫。江戸品川出身。墓所は鍬ケ崎官修墳墓。
- 10:銀次郎:戊辰丸水夫。江戸品川出身。墓所は鍬ケ崎官修墳墓。
歴史
1869年(明治2年)11月2日、盛岡藩知事南部利恭が目時隆之進と中島源蔵の2柱を祭って岩手郡東茶野畑(現・盛岡市内)に創建した。目時隆之進と中島源蔵は明治初年に自刃した尊王の志士だという。『靖国神社誌』には1870年(明治3年)7月創建とある。
1875年(明治8年)、県令島惟精が県下に埋葬されている戊辰戦争戦没者8柱を合祀し、「官祭岩手招魂社」となった。1881年(明治14年)に盛岡城跡地の内丸公園に遷座し、1906年(明治39年)には盛岡八幡宮境内に遷座した。昭和に入って、現在地に新社殿を造営、1939年(昭和14年)4月28日に遷座した。遷座に先立ち、4月1日、内務大臣指定の「岩手護国神社」となった。「岩手県護国神社」にならなかった理由は不明。
1946年(昭和21年)5月20日に岩手神社に改称。1953年(昭和28年)4月9日復した。
境内社は存在しないが、霊璽簿奉安殿や戦没者遺骨奉安殿がある。平和の塔という記念碑もある。 境内施設として岩手県戦没者遺品館や盛岡八幡宮のものとは別に護国神社社務所がある。岩手県神社庁、岩手県遺族連合会(さくら会館)、盛岡市遺族会なども同域にある。 関連団体として岩手県遺族連合会、盛岡市遺族会のほかに岩手護国神社奉賛会がある。
- 1869年(明治2年)11月2日:盛岡藩知事南部利恭が目時隆之進と中島源蔵の2柱を祭って岩手郡東茶野畑に創建。(『靖国神社百年史』)
- 1876年(明治9年)12月:県令島惟精、戊辰戦争戦没者8柱を合祀。官祭岩手招魂社となる。(『靖国神社百年史』)
- 1881年(明治14年)8月:内丸公園に遷座(『靖国神社百年史』)
- 1906年(明治39年)11月5日:盛岡八幡宮境内に遷座。(『靖国神社百年史』)
- :現在地に起工(『靖国神社百年史』)
- 1939年(昭和14年)4月1日:内務大臣指定の「岩手護国神社」となる。(『靖国神社百年史』)
- 1939年(昭和14年)4月28日:遷座祭。(『靖国神社百年史』)
- 1946年(昭和21年)5月20日:「岩手神社」と改称。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1953年(昭和28年)4月9日:「岩手護国神社」と復称(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)10月10日:合祀概了奉告祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1961年(昭和36年)10月13日:幣帛料下賜。岩手行幸につき。(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1965年(昭和40年)11月2日:終戦20周年祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1970年(昭和45年)10月13日:昭和天皇・皇后参拝。幣帛料(『全国護国神社会二十五年史』)
- 2005年(平成17年)8月15日:終戦60年戦没者追悼平和祈願祭。幣帛料奉納。(神社ブログ)
組織
現在地に遷座後は盛岡八幡宮が管理しているようだ。
資料
- 古写真[2]