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宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

岡山県護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年2月9日 (日)

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岡山県護国神社(おかやまけん・ごこくじんじゃ)は、岡山県岡山市中区にある、県内の戦没者などを祀る招魂社官祭招魂社内務大臣指定護国神社岡山招魂社。占領中の名称は操山神社

目次

祭神

年代不詳の境内説明板では5万6693柱とある。 『靖国神社百年史』では5万4266柱、「全国護国神社一覧」では5万6679柱とある。

西南戦争のころより、戦没者の合祀を続けてきたことは他の護国神社と異なる特徴の一つといえる。 1969年(昭和44年)の時点で合祀54回(創建時を除く)、5万4068柱となっている。

歴史

起源

岡山県護国神社の起源は岡山藩主が行った戊辰戦争の戦没者祭祀に遡る。明治天皇の東京行幸に従って、岡山藩主池田章政は東京に赴いた。官軍として戊辰戦争に出兵していた岡山藩兵が東京に凱旋した。そこで池田章政は、1868年(明治1年)12月28日、江戸における池田家菩提寺である芝の東禅寺にて、戦没した岡山藩兵28柱を祭って招魂祭を行った。それと同時に東禅寺庭園に忠魂碑を建立した。これが岡山藩による戦没者祭祀の起源である。このとき建立した忠魂碑は「忠魂碑」の名を冠した最古の石碑だといわれている。その後、この忠魂碑は岡山城に隣接する池田家廟所に移されたが、その行方は不詳という。

池田章政は、東京でのこの招魂祭に続いて、1869年(明治2年)4月3日に御後園(後楽園)そばの竹田河原練兵場に招魂場を設け招魂祭を行った。当時、まだ戊辰戦争は終わっていなかったが、備前一宮吉備津彦神社神職の大守肥後守を斎主として奥羽戦争までの岡山藩戦没者38柱を祭った。この祭典のときには2月18日に合祀者調査を命じており、また3月19日には従軍者の慰労を御後園にて行っている。 さらに、5月18日に函館戦争が終結すると、6月24日に凱旋兵を御後園に集め慰労を行った。そして同月、幣立山(のちの東山公園)にて招魂祭を行い、石碑を建立した。これをもって岡山県護国神社の創建としている。幣立山には玉井宮東照宮がある。当時は招魂場と呼ばれたという。ただし、1871年(明治4年)までは竹田河原と幣立山の両地で祭典が行われた。一般の参拝は幣立山で行われた。 1871年(明治4年)には幣立山に社殿を建立した。これ以後は竹田河原の招魂祭は廃止された。

1874年(明治7年)3月、官祭招魂社制度が制定される。岡山招魂社がいつ官祭となったのかは必ずしも明確でないが、同年中には指定されたものらしい。1875年(明治8年)には全国一律に名称を「招魂社」と称することになった。 1877年(明治10年)西南戦争が起こると、翌年7月、西南戦争戦没者244柱を合祀した。これが合祀祭の始まりで、これ以後、戦争ごとに戦没者を合祀していった。ただしこれらは官祭に預からない私祭祭神であった。 1880年(明治13年)本殿拝殿を改築した。さらに1883年(明治16年)、祭典の敷地を確保するため、同じ偕楽園(東山公園)内の愛宕神社跡地1600坪に遷座した。これは岡山招魂社では戦争ごとに合祀を重ねていったことに関連するものだと考えられる。1906年(明治39年)、「三国神社」と改称することを請願するが、認められなかった。1908年(明治41年)9月には社団法人岡山招魂社維持会が組織される。1922年(大正11年)、財団法人に改組する。

奥市公園遷座と昭和の造営

1914年(大正3年)、指定寄付金15000円の寄付を受け、東に1キロ離れた操山の麓の奥市1527坪に新社殿を造営し、遷座することとなる。4月27日着工し、翌1915年(大正4年)4月26日竣工。そして28日、新社殿へ遷座した。操山には三勲神社があった。

1939年(昭和14年)4月1日、岡山県護国神社と改称し、内務大臣の指定を受けた(昭和14年内務省告示第142号「護国神社の指定に関する件」)。指定護国神社は全県が同時に指定されたわけではなかったが、岡山招魂社は他県に先駆けて、すでに全県的な招魂社としての地位を確立していたため、初回指定の34社に加わることができたと思われる。明治維新後も戦争のたびに戦没者を合祀し続けたこと、充分な敷地を有し、相応な社殿を備えていたこと、そして、ここまで発展させた維持運営基盤が整っていたことが早期指定の要因だと考えられる。同年9月、参道整備竣工。 また昭和期には護国神社制度の制定に前後して、各地で護国神社の造営が相次いだ。他県に対抗する意識もあったのだろうか、既に指定護国神社になっていたが、1940年(昭和15年)6月、岡山県知事を会長として、岡山県護国神社造営委員会が設立され、新社殿造営を行うことになった。11月19日には地鎮祭を行い起工した。岡山市には公園地3000坪、市有墓地1町6反9畝の無償譲与、国には国有林1543坪の無償貸与を請願した。新社殿はいわゆる護国神社様式というもので、荘厳な社殿と広大な敷地が整備された。そして、起工より一年半経って完成し、1942年(昭和17年)5月25日新社殿への遷座祭が行われた。翌年の鳥居建立を持って造営事業は完了した。

占領中の改革

1945年(昭和20年)6月29日、岡山市街は大規模な空襲を受けて、市街地は壊滅した。護国神社周辺も爆撃を受けたが、幸運なことに被害を受けることは免れた。敗戦後、GHQは政教分離と軍国主義の追放の方針を掲げた。1946年(昭和21年)2月2日、神祇院は廃止され、神社の国家管理が終焉を迎えるとともに、全ての神社は、宗教法人令による宗教法人として登記されたものと見なされた。さらにGHQは護国神社を「軍国主義的施設」と見なし、廃止をも視野に入れた検討を行っていた。各地の護国神社は、GHQが特にその名称を軍国主義的だと判断していたことを受けて、名称から「護国」の文字を外す動きを見せた。岡山県護国神社においても、1946年(昭和21年)11月29日、地名にちなんで「操山神社」と改称した。またGHQの判断によって境内国有地の払下を受けることができなかった。 1952年(昭和27年)4月、講和条約が発効し、アメリカによる占領が解除されると、7月4日、いち早く「岡山県護国神社」と改称した。

戦後の動向

1953年(昭和28年)9月23日、岡山県戦没者慰霊塔建設委員会より忠霊塔が寄進され、遺骨奉安祭が行われた。また神社周辺に多数の慰霊碑が建立された。1961年(昭和36年)5月8日、屋根銅板葺替のため、仮殿遷座を行った。工事完了し、8月25日本殿遷座祭を行った。

境内

  • 本社:本殿、拝殿、祝詞殿、中殿、翼廊などから構成されている。典型的な護国神社様式で、拝殿の左右に翼廊が付き、翼を広がるような形で、正面の広場に面している。拝殿は幅6間の切妻平入造の上に入母屋妻入の屋根を乗っける複雑な形状をとっている。その拝殿の背後に流造の本殿が鎮座している。施工は、ほかの多くの護国神社も手がけた大阪の山田組である。
  • 忠霊塔:岡山県戦没者慰霊塔建設委員会より1953年(昭和28年)に寄進された。境内の第三鳥居前、向かって右側に位置している。軸線は北向となっている。納骨室と見られる直方体の上に7mほどの塔が建っており、先端には仏教風の屋根が乗っかっている。正面左右には燈籠が置かれている。
  • 慰霊碑群:境内および神社周辺には多くの慰霊碑が建立されている。消防忠魂碑、岡山県全海軍戦没者慰霊碑、宇垣纏慰霊碑、歩兵第154連隊忠魂碑、ソロモン諸島戦没者之慰霊碑、比島海軍戦没者招魂碑、シベリア抑留者慰霊平和祈念碑などが林立している。
  • 岡山県神社庁

鎮座地の変遷

  • 東禅寺忠魂碑:東京都港区高輪。池田家の菩提寺。忠魂碑は庭園に建てられた。詳細な位置は不明だが、東禅寺の庭に建つ忠魂碑の様子を描いた絵が現存している。
  • 竹田河原:御後園(後楽園)より2キロほど上がった旭川上流にあった。幕末より練兵場が置かれていた。ここで1869年(明治2年)より1871年(明治4年)まで祭典が行われた。
  • 幣立山東山公園1:1869年(明治2年)に石碑が建立され、1871年(明治4年)に社殿が建立された。現在の東山公園噴水付近である。当初の石碑が現存しているのかは不明。幣立山は、県社玉井宮東照宮が鎮座する景勝の地であった。1873年(明治6年)3月、幣立山一体が公園とされ、偕楽園と名付けられた。幣立山は、小高な山でその麓に招魂社は創建された。ただ当時の境内社殿の状況はよく分からない。
  • 幣立山東山公園2:1883年(明治16年)、愛宕神社跡に移転した。現在、東山公園の集会所がある区域である。1600坪。3年前に改築したばかりであり、新築の記述もないことから社殿はそのまま移築したものだと思われる。遷座当時の境内配置図が残っているが、社殿正面に広場を設置し、広場には幄舎を設営できるようになっていたらしい。これは多数の参列者を想定した配置であり、これが社地移転の目的であったと考えられる。旧地では狭隘だったのだろう。招魂社が奥市に遷座後には神宮神部署支署(神宮教岡山地方本部?)が置かれた。
  • 奥市:現在の社地である。奥市は操山の麓に位置し、三方を山林に囲まれた地である。操山山頂には尊皇家とされた三氏を祀った県社三勲神社があった(戦後遷座)。東山公園(偕楽園)の一部だったが、区切られて、奥市公園が設置された。その一部の1527坪を新境内地として新社殿を造営し遷座した。奥市公園には市営球場やグラウンドがある。

組織

歴代

  • 初代受持神官:佐々木元孫:県社玉井宮東照宮社司。1887年(明治20年)~1895年(明治28年)
  • 2代受持神官:高原儀亮:県社春日神社社司。1895年(明治28年)~1897年(明治30年)4月
  • 3代受持神官:佐々木元孫:県社玉井宮東照宮社司、国幣中社吉備津神社宮司。1897年(明治30年)4月~1924年(大正13年)4月。
  • 4代受持神官:藤井杢之助:官幣中社吉備津神社宮司。1924年(大正13年)4月~1938年(昭和13年)6月。
  • 5代受持神官・初代社司:橋本甚一:官幣中社吉備津神社宮司。1938年(昭和13年)6月~1943年(昭和18年)3月。
  • 2代社司:白岩秀夫:1943年(昭和18年)3月~1946年(昭和21年)1月。
  • 3代社司・初代宮司:三宅光信:1946年(昭和21年)1月~1952年(昭和27年)4月。
  • 2代宮司:橋本甚一:1952年(昭和27年)7月~
  • 湯浅正敬
  • 奥西道浩

資料

  • 『岡山県護国神社百年史』
  • 『岡山県護国神社造営誌』
  • 小野芳朗2011「岡山招魂社創建と「公園」の空間変容」[1]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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