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三時知恩寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
三時知恩寺(さんじ・ちおんじ)は、京都府京都市上京区にある浄土宗の尼門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。浄土宗知恩院派特別寺院。三時知恩寺門跡、三時知恩院。入江御所。
目次 |
歴史
後光厳天皇皇女の見子内親王(生没年不詳)が伏見に立てた、善導の自作御影像を祀る持仏堂が起源。善導像は現存しないが、泉涌寺開山俊芿が請来し、天皇の戒師を務めた時に献上。宮中に置かれていたが、光明を放ち、見子内親王が信仰し、伏見の入江に草庵を建てて祀った(「三時知恩寺文書」)。その後、一条西洞院あたり(現在の上京区元真如堂町周辺)にあった崇光天皇御所を賜ったという。のち足利義満娘の覚窓性仙(1397-1415)が開山として入寺。以降、崇光天皇の末裔である伏見宮家か、足利家から入寺した。
三時知恩寺という名称は後柏原天皇が宮中の六時修法のうち昼間の3回を寺で行うようにと勅命を下したことに由来するという。 入江の名については、「三時知恩寺文書」は伏見の入江を挙げる。伏見の入江とは巨椋池のことと思われる。しかし、『雍州府志』や『山州名跡志』には入江という地にあるから三時知恩寺を入江殿と呼ぶとある。『日本歴史地名大系』などによると、承覚法親王(1294-?)の御殿があり、法親王の通称は入江宮だったとしている。すると、一条西洞院あたりが創建以前から入江と呼ばれていたことになる。しかし、『地名大系』が根拠とする地図類も江戸時代の制作であり、根拠としては弱いか。結局のところ不詳。
1425年(応永32年)以前には現在地にあった。応仁の乱の記録にも現在地にあったと読み取れる記述がある。この頃には泉涌寺系の如導派に所属し、長福寺の末寺となっていた。『雍州府志』にはかつて清浄華院に属したとあるが、清浄華院は浄土宗一条流の拠点であり、如導派も同流を受け継いでいる。なお開山の性仙は禅宗(臨済宗)だった(三時知恩寺文書)。
桃山時代以降、近くに邸宅があった近衛家が管轄。知恩院に属した(『雍州府志』)。149石(『国史大辞典』、『嘉永七年 雲上明覧大全』)。1708年(宝永5年)類焼。1764年(明和1年)、入江御所の号を賜った。1788年(天明8年)の大火で焼失後、恭礼門院(桃園天皇女御)の御殿を移築したのが現在の本堂。栄誉尊信が1801年(享和1年)に死去してからは明治まで無住が続いた。
組織
住職
歴代は諸説あり不詳。
- 見子内親王(生没年不詳):後光厳天皇皇女。通称は入江内親王。『日本歴史地名大系』には2世になったという。
- 1覚窓性仙(1397-1415):足利義満の娘。性善。性山。聖仙。
- 2(不明):崇光天皇皇女。
- 3性恵女王(1416-1441):後崇光太上天皇(伏見宮貞成親王)王女。
- 4了山(1416-1509):称光天皇皇女(『三時知恩寺文書』)。1424年(応永31年)4月入室。1509年(永正6年)6月11日死去。足利義教の娘とも。椿性。聖智。墓所は華開院。
- 松山椿性(1460-1558):後土御門天皇皇女。1480年(文明12年)入室。1558年(永禄1年)8月30日死去。墓所は華開院。(『三時知恩寺文書』)
- 秀山松栄女王(1609-1662):伏見宮貞清親王王女。
- 尊勝女王(1676-1703):
- 栄誉尊信
- 入江祥光:1873年(明治6年)、住職に就任。
参考文献
- 『図録 尼門跡寺院の世界』
- 『中世後期泉涌寺の研究』
- 『国史大辞典』
- 「三時知恩寺文書」『古事類苑』所収