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越後・新善光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2015年2月22日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
新善光寺(しんぜんこうじ)は、新潟県東蒲原郡阿賀町津川にある、浄土宗鎮西派藤田流の下越地方・会津地方の拠点だった善光寺信仰の寺院。越後国蒲原郡。「津川新善光寺」。善光寺聖(ひじり)の定尊が創建したが、藤田流の感誓や岌天が再興。京都知恩寺30世の岌州の出身寺院でもある。「仏光山称応院新善光寺」。
伝説的な善光寺聖として知られる甚目寺定尊が建久元年(1190)に創建したとされる(ウェブサイト。浄土宗全書にも建久年間とある)。当初は現在地から5km西の小川庄西村の地(現・阿賀町西)にあったという。
藤田流の実質的な本山であった下総高声寺4世唱名の弟子感誓が、貞治元年(1362)に中興し、浄土宗藤田流の寺院とした。感誓は感生とも書き、諱を道教という(浄土宗全書)。
5世梅岌のときに「伽藍完備」(浄土宗全書)したというがその後、戦乱で荒廃。高声寺8世岌伝の弟子岌天が会津黒川(現・会津若松)に高巌寺を創建後、蘆名氏内乱を避けるために永正年間(1504-1520)末に当寺に移り、再興した。津川は蘆名氏の領地で、津川は「会津津川」(浄土宗全書)と呼ばれるほど会津の影響が強かった。
岌天弟子の岌州は当寺を継承したあと、京都知恩寺30世となった。岌州は、近衛前久や上杉謙信とも関わり、京都や関東で行動を共にしたことは史料上明らかとされる。
岌天以降、会津高巌寺とともに会津・下越地方における藤田流の中心寺院となった。
参考文献
- 新善光寺ウェブサイト
- 藤本顕通「藤田派の教線域と名越派の交渉」
- 渡部伸一「会津地方の藤田派の動静について」