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妙覚寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
妙覚寺(みょうがくじ)は、京都府京都市上京区下清蔵口町にある日蓮宗寺院。本尊は十界大曼荼羅。洛中法華二十一寺の一つ。四条門流。不受不施派の源流となった寺院。現在は日蓮宗久遠寺派の由緒寺院・本山。通称は北龍華。山号は具足山。(参考:同名寺院妙覚寺_(同名))
目次 |
歴史
妙顕寺からの分立
1378年、大覚の弟子の日実が、妙顕寺の継承に異を唱えて実弟の日成と共に退出し、小野妙覚尼の邸宅を寄進されて寺としたのが始まり。 同年、日実は死去が実質的な基礎を固めたのは日成とみられる。 日成は1413年、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。 1466年2月16日、寛正の盟約。 当初は四条大宮にあったが、1473年に将軍の命で室町二条(妙覚寺町)に移転。 1496年、妙蓮寺と教義を巡って争議となり、合戦に及ぶが幕府の仲介で調停となる。 1536年の天文法難で焼失。堺に逃れた。 1542年、洛内還住の勅許。 1548年、旧地に再建された。 1564年、十六本山会合定書を締結。 1582年に本能寺の変で焼失。織田信忠が妙覚寺に滞在していたため。
不受不施の興隆
1590年頃に豊臣秀吉の都市再開発で現在地に移転した。 1595年、秀吉が京都・方広寺大仏への出仕を命じると、不受不施の立場から妙覚寺日奥はこれを拒否して寺を退去した。政権側は特に問題視せずに制裁もなかった。 1599年、日奥が帰還の動きを見せると十六本山は警戒し、奉行所に訴えた。 日奥は大坂城に召喚され、11月20日に徳川家康の前で受派の妙顕寺日紹と堺妙国寺日統と問答した。 大坂対論と呼ばれる。結果、日奥は対馬流罪となった。 1612年に赦免され、1616年に住職に復帰し、1630年に妙覚寺で死去した。
近世の整備
1599年に京都でも最大規模の祖師堂を建立した。 元禄年間に境内の大規模整備。 1788年、天明の大火で焼失。再建には時間が掛かった。
子院
- 観行院:
- 慈雲院:
- 玉泉院:現存?
- 見樹院:
- 実成院:現存?
- 寿泉院:
- 成就院:
- 本立院:
- 智善院:
- 観乗院:
- 恵林院:
- 大乗院:
- 禅明院:
- 円隆院:
- 了緑院:
- 宝樹院:
- 善照院:
- 全蔵院:
- 啓運院:
- 大通院:
(以上『政教中正論』[1])
- 善明院:
- 円蔵院:赦免後に日奥が滞在した。
(『日本歴史地名大系』)
組織
歴代
- 1日蓮()<>:勧請開山。
- 2日朗()<>:勧請
- 3日像()<>:勧請
- 4大覚()<>:勧請
- 5朗源()<>:勧請
- 6日実(1318-1378)<1378-1378>:龍華院。通覚。紀伊出身。大覚の弟子。1378年(天授4年/永和4年)、妙顕寺4世を日霽が継いだことに異を唱えて、1月18日に退出。実弟の日成と共に妙覚寺を創建した。同年6月7日死去。(柳華院は誤りか)
- 7日成(?-1415)<1378->:明珠院。日実の実弟。日実と共に妙顕寺を出て妙覚寺を創建。実質的な創設者。1413年(応永20年)、不受不施を強調した「法華宗異体同心法度」を定めた。佐渡根本寺を創建?
- 8日遵(?-1442)<>:妙華院。日成の弟子。1442年(嘉吉2年)死去。
- 9日延(?-1444)<>:大聖院。和泉出身。日成の弟子。京都・本覚寺、紀伊妙台寺を創建。1429年(永享1年)、堺の経王寺を創建。1444年(文安1年)死去。
- 10日善(?-1451)<>:本性院。1451年(宝徳3年)死去。
- 11日意(?-1480)<>:法心院。1480年(文明12年)死去。
- 12日寮(?-1485)<>:三光院。1485年(文明17年)死去。
- 13日住(1406-1486)<>:真如院。日延の弟子。京都本覚寺2世。寛正の盟約の締結に尽力。
- 14日享(?-1498)<>:寿量院。1498年(明応7年)死去。
- 15日護(?-1532)<>:本是院。1532年(天文1年)死去。
- 16日賞(?-1535)<>:一陽院。1535年(天文4年)死去。
- 17日兆(?-1536)<>:円頓院。1536年(天文5年)天文法難で戦死。
- 18日〓(?-1542)<>:法蔵院。1542年(天文11年)死去。
- 19日饒(?-1561)<>:観照院。斎藤道三の子。
- 20日典(?-1592)<1566-1592>:実成院。根本寺を再興。1592年(文禄1年)死去。75歳。
- 21日奥(1565-1630)<1592-1595>:安国院。仏性院。不受不施派の祖。備前出身。1616年(元和2年)復帰。
- 22日習(?-1653)<>:安国院。日奥の弟子。野呂檀林化主。弟子に日講。1653年(承応2年)死去。72歳。
- 23
- 日忠()<>:唯心院。備前出身。1603年(慶長8年)、博多妙典寺でキリシタンと石城問答。イルマンの旧沢や安都に勝利。福岡勝立寺を創建。
- 日乾(1560-1635)<1630->:身延21世。寂照院。
- 日衍(?-1637)<>:施林院。佐渡根本寺。
- 日宥()<>:
- 24日允(1620-1693)<>:本通院。玄通。本阿弥光悦の子。中村檀林化主。本法寺、法華経寺、妙覚寺を歴任。
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- 26日廷(1613-1684)<>:尊賀院。伏見宮邦房親王の王子。本満寺日暹に師事。飯高檀林、西谷檀林化主。妙覚寺就任。
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- 29日空(1625-1693)<>:観樹院。陽山。妙顕寺17世。六条11世。妙覚寺29世。中村18世。冠山4世。1693年(元禄6年)1月26日死去。
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- 31日隆(1640-1698)<>:隆源院。春山。本圀寺20世。妙覚寺31世。中村24世。水戸3世。六条15世。1698年(元禄11年)3月5日死去。59歳。
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- 33日従(1650-1708)<>:信解院。通心。本圀寺22世。妙覚寺33世。六条20世。中村35世・42世。1708年(宝永5年)12月17日死去。59歳。
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- 35日慈(1664-1735)<>:近要院。恵天。日奥の弟子。妙顕寺28世。六条28世。妙覚寺35世。中村48世。尾張妙勝寺。1735年(享保20年)10月22日死去。72歳。
- 36日叡(?-1721)<>:妙有院。慈明。京都妙覚寺34世。中村55世。六条34世。1721年(享保6年)6月18日死去。
- 37()<>:
- 38日宥(?-1730)<>:修定院。六条37世。妙覚寺38世。1730年(享保15年)1月18日死去。
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- 48日選(1733-1787)<>:等樹院。俊明。六条121世。京都妙覚寺48世。尼崎長遠寺25世。中村155世。1787年(天明7年)5月1日死去。55歳。
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- 50?日遂(1732-1801)<>:慈讓院。周澄。六条122世。京都妙覚寺50世。妙顕寺36世。大阪妙徳寺33世。中村157世。1801年(享和1年)10月5日死去。70歳。
- 50日琮(?-1803)<>:不測院。真覚。京都妙覚寺50世(51は誤りか)。深草宝塔寺29世。中村170世。1803年(享和3年)6月14日死去。
- 51日運(1755-1833)<>:妙用院。智耀。六条158世。京都妙覚寺52世(51?)。本圀寺36世。大阪妙徳寺34世。中村193世。1833年(天保4年)7月1日死去。79歳。
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- 53日盈(?-1831)<>:修要院。良心。六条161世。京都妙覚寺53世。深草宝塔寺31世。中村197世。1831年(天保2年)4月18日死去。
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- 55日〓(?-1837)<>:〓は「車易」。
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- 83頂岳龍乗(-2011)<-2011>:日選。教務部長、日蓮宗新聞社社長。
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- 85及川日周()<2011->:
- 86宮崎日厳()<>:
- 旭日苗(1833-1916)<>:海外布教の実施。光勝寺。妙覚寺。本圀寺48世。