ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

三時知恩寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
3行: 3行:
== 歴史 ==
== 歴史 ==
-
後光厳天皇皇女の見子内親王(生没年不詳)が伏見に立てた、[[善導]]の自作御影像を祀る持仏堂が起源。善導像は現存しないが、[[泉涌寺]]開山[[俊芿]]が請来し、天皇の戒師を務めた時に献上。宮中に置かれていたが、光明を放ち、見子内親王が信仰し、伏見の入江に草庵を建てて祀った(「三時知恩寺文書」)。その後、一条西洞院あたり(現在の上京区元真如堂町周辺)にあった[[崇光天皇]]御所を賜ったという。のち[[足利義満]]娘の覚窓性仙(1397-1415)が開山として入寺。以降、崇光天皇の末裔である[[伏見宮家]]か、[[足利家]]から入寺した。
+
後光厳天皇皇女の見子内親王(生没年不詳)が伏見に立てた、[[善導]]の自作御影像を祀る持仏堂が起源。善導像は現存しないが(近世造立の像がある)、[[泉涌寺]]開山[[俊芿]]が請来し、天皇の戒師を務めた時に献上。宮中に置かれていたが、光明を放ち、見子内親王が信仰し、伏見の入江に草庵を建てて祀った(「三時知恩寺文書」)。その後、一条西洞院あたり(現在の上京区元真如堂町周辺)にあった[[崇光天皇]]御所を賜ったという。のち[[足利義満]]娘の覚窓性仙(1397-1415)が開山として入寺。以降、崇光天皇の末裔である[[伏見宮家]]か、[[足利家]]から入寺した。
三時知恩寺という名称は[[後柏原天皇]]が宮中の六時修法のうち昼間の3回を寺で行うようにと勅命を下したことに由来するという。
三時知恩寺という名称は[[後柏原天皇]]が宮中の六時修法のうち昼間の3回を寺で行うようにと勅命を下したことに由来するという。
10行: 10行:
1425年(応永32年)以前には現在地にあった。応仁の乱の記録にも現在地にあったと読み取れる記述がある。この頃には泉涌寺系の[[如導派]]に所属し、[[長福寺]]の末寺となっていた。『雍州府志』にはかつて[[清浄華院]]に属したとあるが、清浄華院は[[浄土宗一条流]]の拠点であり、如導派も同流を受け継いでいる。なお開山の性仙は禅宗([[臨済宗]])だった(三時知恩寺文書)。
1425年(応永32年)以前には現在地にあった。応仁の乱の記録にも現在地にあったと読み取れる記述がある。この頃には泉涌寺系の[[如導派]]に所属し、[[長福寺]]の末寺となっていた。『雍州府志』にはかつて[[清浄華院]]に属したとあるが、清浄華院は[[浄土宗一条流]]の拠点であり、如導派も同流を受け継いでいる。なお開山の性仙は禅宗([[臨済宗]])だった(三時知恩寺文書)。
-
桃山時代以降、近くに邸宅があった[[近衛家]]が管轄。知恩院に属した(『雍州府志』)。149石(『国史大辞典』、『嘉永七年 雲上明覧大全』)。1708年(宝永5年)類焼。1764年(明和1年)、'''入江御所'''の号を賜った。1788年(天明8年)の大火で焼失後、恭礼門院([[桃園天皇]]女御)の御殿を移築したのが現在の本堂。栄誉尊信が1801年(享和1年)に死去してからは明治まで無住が続いた。
+
近世、[[近衛家]]出身の久山昌隆が中興。以降、近くに邸宅があった近衛家が管轄。知恩院に属した(『雍州府志』)。149石(『国史大辞典』、『嘉永七年 雲上明覧大全』)。1708年(宝永5年)類焼。1764年(明和1年)、'''入江御所'''の号を賜った。1788年(天明8年)の大火で焼失後、恭礼門院([[桃園天皇]]女御)の御殿を移築したのが現在の本堂。栄誉尊信女王が1801年(享和1年)に死去してからは明治まで無住が続いた。
-
 
+
== 組織 ==
== 組織 ==
===住職===
===住職===
歴代は諸説あり不詳。
歴代は諸説あり不詳。
-
*見子内親王(生没年不詳):後光厳天皇皇女。通称は入江内親王。『日本歴史地名大系』には2世になったという。
+
*見子内親王(生没年不詳):後光厳天皇皇女。通称は入江内親王。『日本歴史地名大系』には2世になったとある。
-
*1覚窓性仙(1397-1415):足利義満の娘。性善。性山。聖仙。
+
*覚窓性仙(1397-1415):足利義満の娘。母は藤原慶子。鄂隠慧奯(カツ)に師事。1415年(応永22年)3月1日死去。性善。性山。聖仙。
-
*2(不明):崇光天皇皇女。
+
*(不明):足利義持の娘。
-
*3性恵女王(1416-1441):後崇光太上天皇(伏見宮貞成親王)王女。
+
*(不明):崇光天皇皇女。
-
*4了山(1416-1509):称光天皇皇女(『三時知恩寺文書』)。1424年(応永31年)4月入室。1509年(永正6年)6月11日死去。足利義教の娘とも。椿性。聖智。墓所は華開院。
+
*性恵女王(1416-1441):後崇光太上天皇(伏見宮貞成親王)王女。母は敷政門院。1416年(応永23年)11月19日生。1418年(応永25年)12月13日出家。1423年(応永30年)8月29日相続が決まる。1424年(応永31年)4月19日入室。1441年(嘉吉1年)5月28日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
-
*松山椿性(1460-1558):後土御門天皇皇女。1480年(文明12年)入室。1558年(永禄1年)8月30日死去。墓所は華開院。(『三時知恩寺文書』)
+
*4了山(生没年不詳):「三時知恩寺文書」では称光天皇皇女とし、1416年(応永23年)生、1424年(応永31年)4月入室、1509年(永正6年)6月11日死去とする。『中世後期泉涌寺の研究』では別名を椿性。聖智とし、足利義教の娘で、1433年(永享5年)閏7月23日生、1433年(永享5年)11月25日入室、1526年(大永6年)6月11日死去とする。墓所は華開院。
-
*秀山松栄女王(1609-1662):伏見宮貞清親王王女。
+
*(不明):足利義政の娘。1467年(応仁1年)2月20日生。1474年(文明6年)7月12日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
 +
*松山(?-1558):『三時知恩寺文書』によると、後土御門天皇皇女で別名を椿性といい、1460年(寛正1年)生、1480年(文明12年)入室、1558年(永禄1年)8月30日死去。『中世後期泉涌寺の研究』によると、足利義尚の娘で聖槃といい、1487年(長享1年)閏11月16日生、1488年(長享2年)12月5日入室、1558年(永禄1年)8月30日死去。墓所は華開院。
 +
*悟中恵彭(?-1578):伏見宮邦輔親王王女。正親町天皇猶子。1578年(天正6年)3月10日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
 +
*久山昌隆(?-1615):近衛前久の娘。1615年(元和1年)3月2日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
 +
*秀山松栄女王(1609-1662):伏見宮貞清親王王女。1662年(寛文2年)8月19日死去。
*尊勝女王(1676-1703):
*尊勝女王(1676-1703):
-
*栄誉尊信
+
*栄誉尊信女王(1734-1801):閑院宮直仁親王王女。近衛家久の養女。母は近衛基煕の娘。1744年(延享1年)入寺得度。1801年(享和1年)9月25日死去。(『日本人名大辞典』)
*入江祥光:1873年(明治6年)、住職に就任。
*入江祥光:1873年(明治6年)、住職に就任。
 +
 +
『中世後期泉涌寺の研究』は、見子内親王の前に陽徳門院(後深草天皇皇女。媖子内親王)、光子内親王(光厳天皇皇女)を挙げるが不詳。
 +
==参考文献==
==参考文献==

2017年6月18日 (日) 時点における版

三時知恩寺(さんじ・ちおんじ)は、京都府京都市上京区にある浄土宗尼門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。浄土宗知恩院派特別寺院。三時知恩寺門跡三時知恩院入江御所


目次

歴史

後光厳天皇皇女の見子内親王(生没年不詳)が伏見に立てた、善導の自作御影像を祀る持仏堂が起源。善導像は現存しないが(近世造立の像がある)、泉涌寺開山俊芿が請来し、天皇の戒師を務めた時に献上。宮中に置かれていたが、光明を放ち、見子内親王が信仰し、伏見の入江に草庵を建てて祀った(「三時知恩寺文書」)。その後、一条西洞院あたり(現在の上京区元真如堂町周辺)にあった崇光天皇御所を賜ったという。のち足利義満娘の覚窓性仙(1397-1415)が開山として入寺。以降、崇光天皇の末裔である伏見宮家か、足利家から入寺した。

三時知恩寺という名称は後柏原天皇が宮中の六時修法のうち昼間の3回を寺で行うようにと勅命を下したことに由来するという。 入江の名については、「三時知恩寺文書」は伏見の入江を挙げる。伏見の入江とは巨椋池のことと思われる。しかし、『雍州府志』や『山州名跡志』には入江という地にあるから三時知恩寺を入江殿と呼ぶとある。『日本歴史地名大系』などによると、承覚法親王(1294-?)の御殿があり、法親王の通称は入江宮だったとしている。すると、一条西洞院あたりが創建以前から入江と呼ばれていたことになる。しかし、『地名大系』が根拠とする地図類も江戸時代の制作であり、根拠としては弱いか。結局のところ不詳。

1425年(応永32年)以前には現在地にあった。応仁の乱の記録にも現在地にあったと読み取れる記述がある。この頃には泉涌寺系の如導派に所属し、長福寺の末寺となっていた。『雍州府志』にはかつて清浄華院に属したとあるが、清浄華院は浄土宗一条流の拠点であり、如導派も同流を受け継いでいる。なお開山の性仙は禅宗(臨済宗)だった(三時知恩寺文書)。

近世、近衛家出身の久山昌隆が中興。以降、近くに邸宅があった近衛家が管轄。知恩院に属した(『雍州府志』)。149石(『国史大辞典』、『嘉永七年 雲上明覧大全』)。1708年(宝永5年)類焼。1764年(明和1年)、入江御所の号を賜った。1788年(天明8年)の大火で焼失後、恭礼門院(桃園天皇女御)の御殿を移築したのが現在の本堂。栄誉尊信女王が1801年(享和1年)に死去してからは明治まで無住が続いた。

組織

住職

歴代は諸説あり不詳。

  • 見子内親王(生没年不詳):後光厳天皇皇女。通称は入江内親王。『日本歴史地名大系』には2世になったとある。
  • 覚窓性仙(1397-1415):足利義満の娘。母は藤原慶子。鄂隠慧奯(カツ)に師事。1415年(応永22年)3月1日死去。性善。性山。聖仙。
  • (不明):足利義持の娘。
  • (不明):崇光天皇皇女。
  • 性恵女王(1416-1441):後崇光太上天皇(伏見宮貞成親王)王女。母は敷政門院。1416年(応永23年)11月19日生。1418年(応永25年)12月13日出家。1423年(応永30年)8月29日相続が決まる。1424年(応永31年)4月19日入室。1441年(嘉吉1年)5月28日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
  • 4了山(生没年不詳):「三時知恩寺文書」では称光天皇皇女とし、1416年(応永23年)生、1424年(応永31年)4月入室、1509年(永正6年)6月11日死去とする。『中世後期泉涌寺の研究』では別名を椿性。聖智とし、足利義教の娘で、1433年(永享5年)閏7月23日生、1433年(永享5年)11月25日入室、1526年(大永6年)6月11日死去とする。墓所は華開院。
  • (不明):足利義政の娘。1467年(応仁1年)2月20日生。1474年(文明6年)7月12日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
  • 松山(?-1558):『三時知恩寺文書』によると、後土御門天皇皇女で別名を椿性といい、1460年(寛正1年)生、1480年(文明12年)入室、1558年(永禄1年)8月30日死去。『中世後期泉涌寺の研究』によると、足利義尚の娘で聖槃といい、1487年(長享1年)閏11月16日生、1488年(長享2年)12月5日入室、1558年(永禄1年)8月30日死去。墓所は華開院。
  • 悟中恵彭(?-1578):伏見宮邦輔親王王女。正親町天皇猶子。1578年(天正6年)3月10日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
  • 久山昌隆(?-1615):近衛前久の娘。1615年(元和1年)3月2日死去。(『中世後期泉涌寺の研究』)
  • 秀山松栄女王(1609-1662):伏見宮貞清親王王女。1662年(寛文2年)8月19日死去。
  • 尊勝女王(1676-1703):
  • 栄誉尊信女王(1734-1801):閑院宮直仁親王王女。近衛家久の養女。母は近衛基煕の娘。1744年(延享1年)入寺得度。1801年(享和1年)9月25日死去。(『日本人名大辞典』)
  • 入江祥光:1873年(明治6年)、住職に就任。

『中世後期泉涌寺の研究』は、見子内親王の前に陽徳門院(後深草天皇皇女。媖子内親王)、光子内親王(光厳天皇皇女)を挙げるが不詳。


参考文献

  • 『図録 尼門跡寺院の世界』
  • 『中世後期泉涌寺の研究』
  • 『国史大辞典』
  • 「三時知恩寺文書」『古事類苑』所収
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%89%E6%99%82%E7%9F%A5%E6%81%A9%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール