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五流尊瀧院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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===中興以降の住職===
===中興以降の住職===
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*1頼仁親王(1201-1264):児島修験の開祖。後鳥羽天皇皇子。承久の乱に関わった罪で備前児島に流され、五流尊瀧院を中興。冷泉宮、児島宮。寺伝では享年を69歳とする。皇室治定の頼仁親王墓がある。
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*1頼仁親王(1201-1264):児島修験の開祖。[[後鳥羽天皇]]皇子。承久の乱に関わった罪で備前児島に流され、五流尊瀧院を中興。冷泉宮、児島宮。寺伝では享年を69歳とする。皇室治定の[[頼仁親王墓]]がある。
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*覚仁法親王(1198-1266):後鳥羽天皇皇子。熊野三山検校。新熊野検校。後嵯峨上皇の熊野行幸の先達を務めた。五流尊瀧院を中興。墓を桜井塚(治定外)という。
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*覚仁法親王(1198-1266):後鳥羽天皇皇子。熊野三山検校。新熊野検校。[[後嵯峨上皇]]の熊野行幸の先達を務めた。五流尊瀧院を中興。墓を[[桜井塚]](治定外)という。
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*2道乗:頼仁親王の王子。子に澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範の6人がいた。
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*2道乗()<>:頼仁親王の王子。子に澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範の6人がいた。
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*3澄意:道乗の子。
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*4頼宴:道乗の子。[[児島高徳]]の父と伝わる。
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*35宮家晋(?-1907):隆興の子。1907年(明治40年)死去。42歳。
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*35宮家晋(?-1907)<>:隆興の子。1907年(明治40年)死去。42歳。
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*36宮家教誉(1898-1991)<1924-1991>:修験道本庁初代管長。初名は龍興。晋の甥。一時期は東京で暮らしたが1923年(大正12年)の関東大震災の被災を機に岡山に帰郷。1924年(大正13年)に住職就任。旧末流の結集を密かに進め、戦後、修験道本庁を設立。1991年(平成3年)10月21日死去。94歳。
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*36宮家教誉(1898-1991)<1924-1991>:[[修験道本庁]]初代管長。初名は龍興。晋の甥。一時期は東京で暮らしたが1923年(大正12年)の関東大震災の被災を機に岡山に帰郷。1924年(大正13年)に住職就任。旧末流の結集を密かに進め、戦後、修験道本庁を設立。1991年(平成3年)10月21日死去。94歳。
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*宮家道玄(1922-2011)<1992-2011>:修験道本庁2代管長。少年時代は満洲に住む。上海東亜同文書院大学に入学するがすぐに学徒出陣。1948年(昭和23年)京都大学卒。1949年(昭和24年)教誉に弟子入り。教誉の娘と結婚して、三宅信徳と名乗り、のち宮家信徳と名乗る。宗務総長を経て、1992年(平成4年)管長就任。1994年(平成6年)、中国泰山で入峰修行。1996年(平成8年)中国長白山(北朝鮮・白頭山)で入峰修行。1998年(平成10年)ギリシャ・アトス山を遥拝。男系相続の原則から歴代に数えられていないようだ。2011年4月14日死去。
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*宮家道玄(1922-2011)<1992-2011>:修験道本庁2代管長。少年時代は満洲に住む。上海東亜同文書院大学に入学するがすぐに学徒出陣。1948年(昭和23年)京都大学卒。1949年(昭和24年)教誉に弟子入り。教誉の娘と結婚して、三宅信徳と名乗り、のち宮家信徳と名乗る。宗務総長を経て、1992年(平成4年)管長就任。1994年(平成6年)、中国[[泰山]]で入峰修行。1996年(平成8年)中国長白山(北朝鮮・[[白頭山]])で入峰修行。1998年(平成10年)ギリシャ・[[アトス山]]を遥拝。男系相続の原則から歴代に数えられていないようだ。2011年4月14日死去。
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*37宮家堯仁(1933-)<2012->:宗教学者・宮家準として知られる。教誉の兄の子。母は[[法然]]の実家とされる立石家。東京都生まれ。教誉の養子となる。慶応義塾大学卒。東京大学大学院で岸本英夫に師事。博士課程修了。慶応義塾大学教授、国学院大学教授を歴任。日本宗教学会会長。修験道本庁3代管長。
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*37宮家堯仁(1933-)<2012->:修験道研究の第一人者で宗教学者の宮家準として知られる。教誉の兄の子。母は[[法然]]の実家とされる立石家。東京都生まれ。教誉の養子となる。慶応義塾大学卒。東京大学大学院で岸本英夫に師事。博士課程修了。慶応義塾大学教授、国学院大学教授を歴任。日本宗教学会会長。修験道本庁3代管長。
[[Category:岡山県]]
[[Category:岡山県]]

2018年10月5日 (金) 時点における版

五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)は岡山県倉敷市にある修験道本山派本山寺院修験道本庁の総本山。倉敷・熊野神社に長床衆として奉仕した。五流尊瀧院関連旧跡


目次

歴史

役小角が伊豆大島に配流された時、五人の弟子は難を避けるために熊野権現の神体を奉じて児島に下ったのが起源とされる。

室町時代後期に聖護院門跡の傘下に入る。 戦後、独立して修験道本庁(正式名称は「修験道」)を設立。

組織

初期の住職

  • 1義学:役小角の弟子。五鬼の一人。
  • 2義玄:役小角の弟子。五鬼の一人。
  • 3義真:役小角の弟子。五鬼の一人。
  • 4寿元:役小角の弟子。五鬼の一人。
  • 5芳元:役小角の弟子。五鬼の一人。
  • 6神鏡
  • 7義天:神鏡の子。
  • 8雲照
  • 9元具:雲照の子。

中興以降の住職

  • 1頼仁親王(1201-1264):児島修験の開祖。後鳥羽天皇皇子。承久の乱に関わった罪で備前児島に流され、五流尊瀧院を中興。冷泉宮、児島宮。寺伝では享年を69歳とする。皇室治定の頼仁親王墓がある。
  • 覚仁法親王(1198-1266):後鳥羽天皇皇子。熊野三山検校。新熊野検校。後嵯峨上皇の熊野行幸の先達を務めた。五流尊瀧院を中興。墓を桜井塚(治定外)という。
  • 2道乗()<>:頼仁親王の王子。子に澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範の6人がいた。
  • 3澄意()<>:道乗の子。
  • 4頼宴()<>:道乗の子。児島高徳の父と伝わる。
  • 5重深()<>:
  • 6回深()<>:
  • 7頼深()<>:
  • 8頼瑜()<>:
  • 9湛深()<>:
  • 10玄道()<>:
  • 11乗玄()<>:
  • 12乗宴()<>:
  • 13隆宴()<>:
  • 14隆以()<>:
  • 15道宣()<>:
  • 16宴順()<>:
  • 17宣重()<>:
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  • 19昌順()<>:
  • 20回算()<>:
  • 21玄応()<>:
  • 22昌宴()<>:
  • 23諦宴()<>:
  • 24澄順()<>:
  • 25玄宴()<>:
  • 26澄玄()<>:
  • 27澄宴()<>:
  • 28澄与()<>:
  • 29玄興()<>:
  • 30覚道()<>:
  • 31玄鑑()<>:
  • 32抽興()<>:
  • 33元興()<>:
  • 34隆興()<>:修験道廃止に際し、修験道の神道化を試みたが果たせなかった。
  • 35宮家晋(?-1907)<>:隆興の子。1907年(明治40年)死去。42歳。
  • 36宮家教誉(1898-1991)<1924-1991>:修験道本庁初代管長。初名は龍興。晋の甥。一時期は東京で暮らしたが1923年(大正12年)の関東大震災の被災を機に岡山に帰郷。1924年(大正13年)に住職就任。旧末流の結集を密かに進め、戦後、修験道本庁を設立。1991年(平成3年)10月21日死去。94歳。
  • 宮家道玄(1922-2011)<1992-2011>:修験道本庁2代管長。少年時代は満洲に住む。上海東亜同文書院大学に入学するがすぐに学徒出陣。1948年(昭和23年)京都大学卒。1949年(昭和24年)教誉に弟子入り。教誉の娘と結婚して、三宅信徳と名乗り、のち宮家信徳と名乗る。宗務総長を経て、1992年(平成4年)管長就任。1994年(平成6年)、中国泰山で入峰修行。1996年(平成8年)中国長白山(北朝鮮・白頭山)で入峰修行。1998年(平成10年)ギリシャ・アトス山を遥拝。男系相続の原則から歴代に数えられていないようだ。2011年4月14日死去。
  • 37宮家堯仁(1933-)<2012->:修験道研究の第一人者で宗教学者の宮家準として知られる。教誉の兄の子。母は法然の実家とされる立石家。東京都生まれ。教誉の養子となる。慶応義塾大学卒。東京大学大学院で岸本英夫に師事。博士課程修了。慶応義塾大学教授、国学院大学教授を歴任。日本宗教学会会長。修験道本庁3代管長。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%94%E6%B5%81%E5%B0%8A%E7%80%A7%E9%99%A2」より作成

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