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京都・方広寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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[[豊臣秀吉]]により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、慶長2年、[[善光寺如来]]が[[甲斐善光寺]](あるいは[[鴨江寺]])より方広寺の本尊として迎えられた。しかし、善光寺如来の祟りを恐れ、翌年、[[善光寺|長野]]に戻された。
[[豊臣秀吉]]により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、慶長2年、[[善光寺如来]]が[[甲斐善光寺]](あるいは[[鴨江寺]])より方広寺の本尊として迎えられた。しかし、善光寺如来の祟りを恐れ、翌年、[[善光寺|長野]]に戻された。
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==組織==
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===歴代住職(近世)===
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豊臣家滅亡後の1615年(元和1年)から妙法院門跡が兼務。
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*1道澄(1544-1608)<1595->: 照高院1世。
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*2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620)<1601->:照高院宮初代。聖護院門跡。園城寺長吏。1601年(慶長6年)方広寺別当。1615年(元和1年)豊臣家滅亡で追放された。江戸で客死。(略歴は[[照高院宮#組織]]を参照)
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*3常胤法親王(1548-1621)<>:天台座主。[[妙法院門跡]]門主33世。1615年(元和1年)妙法院門跡が兼務。(略歴は[[妙法院門跡#組織]]を参照)
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===歴代住職(明治以降)===
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*村田泰良()<>:
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*木下寂善(1876-1942)<>:[[二尊院]]住職。[[四天王寺]]住職。(略歴は[[四天王寺#組織]]を参照)
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*木下寂俊(1947-)<1970->:天台宗宗務総長。1947年(昭和22年)生。龍谷大学文学部仏教学科卒業。1970年(昭和45年)方広寺住職。1997年(平成9年)妙法院門跡執事長。平成25年(2013)、天台宗宗務総長。
[[category:京都府]]
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2018年4月1日 (日) 時点における版

豊臣秀吉が創建した大仏寺院善光寺遷座旧跡寺院。京都府京都市東山区。天台宗。 (参考:同名寺院方広寺

名称は盧舎那仏(大仏)の出典である『大方広仏華厳経』から取られたものと思われる。


豊臣秀吉により、焼失した大仏殿大仏の代わりに、慶長2年、善光寺如来甲斐善光寺(あるいは鴨江寺)より方広寺の本尊として迎えられた。しかし、善光寺如来の祟りを恐れ、翌年、長野に戻された。


組織

歴代住職(近世)

豊臣家滅亡後の1615年(元和1年)から妙法院門跡が兼務。

  • 1道澄(1544-1608)<1595->: 照高院1世。
  • 2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620)<1601->:照高院宮初代。聖護院門跡。園城寺長吏。1601年(慶長6年)方広寺別当。1615年(元和1年)豊臣家滅亡で追放された。江戸で客死。(略歴は照高院宮#組織を参照)
  • 3常胤法親王(1548-1621)<>:天台座主。妙法院門跡門主33世。1615年(元和1年)妙法院門跡が兼務。(略歴は妙法院門跡#組織を参照)

歴代住職(明治以降)

  • 村田泰良()<>:
  • 木下寂善(1876-1942)<>:二尊院住職。四天王寺住職。(略歴は四天王寺#組織を参照)
  • 木下寂俊(1947-)<1970->:天台宗宗務総長。1947年(昭和22年)生。龍谷大学文学部仏教学科卒業。1970年(昭和45年)方広寺住職。1997年(平成9年)妙法院門跡執事長。平成25年(2013)、天台宗宗務総長。
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