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勝林院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1018年(寛仁2年)、覚超と遍救を招いて法華八講を営んだ。 | 1018年(寛仁2年)、覚超と遍救を招いて法華八講を営んだ。 | ||
1020年(寛仁4年)には覚超と遍救が論争した。 | 1020年(寛仁4年)には覚超と遍救が論争した。 | ||
声明の伝習の拠点としてだけでなく[[談議所]]としても発展した。 | 声明の伝習の拠点としてだけでなく[[談議所]]としても発展した。 | ||
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1186年(文治2年)秋、顕真が明遍、[[貞慶]]、[[重源]]、証真、智海、湛学と共に[[法然]]を招いて「勝林院の丈六堂」で大原問答を行った(法然上人伝記)。300人の聴衆が聞き入ったという。法然の主張が正しかった証拠として阿弥陀像が立ち上がったので本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになる。 | 1186年(文治2年)秋、顕真が明遍、[[貞慶]]、[[重源]]、証真、智海、湛学と共に[[法然]]を招いて「勝林院の丈六堂」で大原問答を行った(法然上人伝記)。300人の聴衆が聞き入ったという。法然の主張が正しかった証拠として阿弥陀像が立ち上がったので本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになる。 | ||
1476年(文明8年)10月、内裏焼亡のため[[後花園天皇]]七回忌が勝林院に勅使が参向して行われた。この時の記録『魚山の御のり』が伝わる。 | 1476年(文明8年)10月、内裏焼亡のため[[後花園天皇]]七回忌が勝林院に勅使が参向して行われた。この時の記録『魚山の御のり』が伝わる。 | ||
+ | 1490年(延徳2年)閏8月15日、天皇、勝林院の焼け残った観音小像を宮中に招いて叡覧。 | ||
+ | 1506年(永正3年)10月7日、勝林院と来迎院の間で対立があるが、勅して和解させる。 | ||
1659年(万治2年)4月21日、[[後水尾法皇]]と[[東福門院]]が勝林院で融通念仏を受けた。 | 1659年(万治2年)4月21日、[[後水尾法皇]]と[[東福門院]]が勝林院で融通念仏を受けた。 | ||
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1736年(元文1年)1月、本堂焼失。 | 1736年(元文1年)1月、本堂焼失。 | ||
1778年(安永7年)本堂再建。 | 1778年(安永7年)本堂再建。 | ||
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(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか) | (日本歴史地名大系、国史大辞典ほか) | ||
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==伽藍== | ==伽藍== | ||
*本堂: | *本堂: | ||
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*[[順徳天皇陵]] | *[[順徳天皇陵]] | ||
*[[最胤親王墓]] | *[[最胤親王墓]] | ||
+ | *宝篋印塔:1316年(正和5年)銘 | ||
[[file:Kokudo0222.jpg|thumb|300px|勝林院・三千院門跡・実光院など(国土地理院空中写真より)]] | [[file:Kokudo0222.jpg|thumb|300px|勝林院・三千院門跡・実光院など(国土地理院空中写真より)]] |
2021年10月31日 (日) 時点における版
勝林院(しょうりんいん)は京都府京都市左京区大原勝林院町(山城国愛宕郡)にある天台宗寺院。本尊は阿弥陀如来。天台宗延暦寺派。法然上人二十五霊場。大原別所、証拠阿弥陀堂とも呼ばれる。大原寺の下院の中心とされる。山号は魚山。
歴史
1013年(長和2年)、寂源が大原に隠棲し、勝林院と称した(元亨釈書、〓嚢鈔)。 常行三昧を続けたら毘沙門天が降臨したという。 これ以前に835年(承和2年)、円仁が天台声明の根本道場として創建ともいう。
1018年(寛仁2年)、覚超と遍救を招いて法華八講を営んだ。 1020年(寛仁4年)には覚超と遍救が論争した。 声明の伝習の拠点としてだけでなく談議所としても発展した。 1186年(文治2年)秋、顕真が明遍、貞慶、重源、証真、智海、湛学と共に法然を招いて「勝林院の丈六堂」で大原問答を行った(法然上人伝記)。300人の聴衆が聞き入ったという。法然の主張が正しかった証拠として阿弥陀像が立ち上がったので本尊は「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになる。 1476年(文明8年)10月、内裏焼亡のため後花園天皇七回忌が勝林院に勅使が参向して行われた。この時の記録『魚山の御のり』が伝わる。 1490年(延徳2年)閏8月15日、天皇、勝林院の焼け残った観音小像を宮中に招いて叡覧。 1506年(永正3年)10月7日、勝林院と来迎院の間で対立があるが、勅して和解させる。 1659年(万治2年)4月21日、後水尾法皇と東福門院が勝林院で融通念仏を受けた。 1736年(元文1年)1月、本堂焼失。 1778年(安永7年)本堂再建。
(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)