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北野経王堂

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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旧材を使って再建した太子堂が大報恩寺にある。

北野経王堂は京都府京都市上京区馬喰町の北野天満宮にあった仏堂。現在の影向の松あたりにあった。北野一切経による万部経会が行っていた。北野一切経を収めた輪蔵が付属した。京都・願成就寺と同一ともされるが、一応区別しておく。室町時代末から大報恩寺の管轄下に入った。 東山三十三間堂の2倍半の大きさがある巨大な堂宇だった。 旧材を使って再建した太子堂が大報恩寺にある。北野天満宮関連旧跡

歴史

  • 1392年4月10日:足利義満、明徳の乱で負けた山名氏清や戦没兵士供養のために法華経を書写し、臨済宗の五山の僧侶1000人を集めて大施餓鬼を行った。場所は明確でないが、北野天満宮の周辺とみられる。北野天満宮近くの内野(大極殿跡)が激戦地となった。[1]
  • 1395年9月22日:10日間にわたり1000人の僧侶により北野南馬場で一万部法華経の読誦会を厳修。[2]
  • 1395年10月1日:さらに10日間の法会を実施[3]
  • 1401年:足利義満、北野天満宮境内に経王堂を建立。1425年?
  • 1412年:讃岐虚空蔵院の覚蔵坊増範が発願勧進して北野一切経を書写して奉納した。
  • 1540年:堯淳という勧進僧が北野経王堂の修造の勧進を行う。[4]
  • 室町時代末:大報恩寺の管轄下に入る。
  • 1606年8月25日:豊臣秀頼が再建[5][6][7]
  • 1613年:常明寺宗存、北野経王堂で開板事業を始める。1626年頃まで。
  • 1665年:廃絶[8]
  • 1670年:大報恩寺本堂修復。北野経王堂の旧材が再利用された。[9]
  • 1671年:腐朽したため解体縮小されて小堂となる
  • 1954年:大報恩寺本堂修復。北野経王堂復元???

資料

  • 竹内秀雄1937「北野経王堂について」『史蹟と古美術』
  • 1954『国宝建造物大報恩寺本堂修理工事報告書』[10]
    • 「北野願成就寺経王堂に関するもの」[11]、図版[12]
  • 臼井信義1959「北野社一切経と経王堂ー一切経会と万部経会」『日本仏教』3
  • 冨島義幸2006「足利義満と北野経王堂」『室町政権の首府構想と京都ー室町・北山・東山』
  • 小林善仁2013「北野天満宮の境内図に関する資料的検討ー「北野社域図」 を事例に」[13]
  • 神田大輝2015「広蔵院日辰の北野一切経披見ー北野杜一切経にみられる日辰の識語を中心に」[14]
  • 土屋貴裕2018「北野経王堂の変遷-大報恩寺六観音像の移座をめぐって」『京都大報恩寺快慶・定慶のみほとけ展図録』
  • 佐々木勇2019「北野経王堂一切経(北野社一切経)の底本1」[15]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E7%B5%8C%E7%8E%8B%E5%A0%82」より作成

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