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北野経王堂

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年3月1日 (水)

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経王堂旧材を使って1954年(昭和29年)に再建した太子堂が大報恩寺にある。

北野経王堂は京都府京都市上京区馬喰町の北野天満宮にあった仏堂。法華経による北野万部経会を行うために建てられた。経王は法華経を意味すると思われる。東向観音寺の南、影向の松の西にあった。室町時代の1515年(永正12年)頃から大報恩寺の管轄下に入った。東山三十三間堂の1.3倍の建坪がある巨大な堂宇だったと推定されている。北野社一切経を蔵したことで知られる。一切経を納めていた経蔵が付属し、北野天満宮本殿前にあった。廃絶。 旧材を使って再建した太子堂が大報恩寺にある。北野天満宮関連旧跡。 寺号は願成就寺。 北野宮寺、北野宮経堂、北野妙法一切経道場、北野大経堂、北野一万部御経所などとも呼ばれた。 (同名寺院願成就寺


歴史

  • 1391年(元中8年/明徳2年)12月:明徳の乱。
  • 1392年(元中9年/明徳3年)4月10日:足利義満、明徳の乱で負けた山名氏清や戦没兵士供養のために法華経を書写し、臨済宗の五山の僧侶1000人を集めて大施餓鬼を行った。激戦地となった北野天満宮近くの内野(大内裏跡)で行われた。北野万部経会の始まり。[1][2]
  • 1395年(応永2年)9月22日:近江百済寺の僧侶の発願により北野南馬場に仮屋2棟を建て10日間にわたり1100人の僧侶により一万部法華経の読誦会を厳修。[3][4]
  • 1395年(応永2年)10月1日:連続して将軍足利義満の発願により10日間の法会を実施。[5]
  • 1400年(応永7年)10月7日:「北野右近馬場仮屋」に経法師1000人を集めて読誦会。(枝葉抄)
  • 1401年(応永8年):足利義満、北野天満宮境内に経王堂を建立。義満が「経王堂」の額の字を記したという。[6][7]
  • 1403年(応永10年):落慶[8]
  • 1412年(応永19年):讃岐与田寺の覚蔵坊増範が発願勧進して北野社一切経を書写して奉納した。2月25日に法華懺法を行い、3月17日から8月18日に掛けて写経した。以後、北野覚蔵坊が経王堂を管理する。[9]
  • 1413年(応永20年):北野社一切経を納める経蔵を北野経王堂内に建立(のち北野天満宮本殿前に移築されたという)。[10]
  • 1438年(永享10年):本尊の釈迦如来多宝如来を造立。仏師は康勝。[11]
  • 1462年(寛正3年)10月15日:足利義政、鹿苑寺・北野経王堂・相国寺光聚院に参詣(蔭凉軒日録)。
  • 1467年(応仁1年):応仁の乱。万部経会中断。[12]
  • 1479年(文明11年)10月5日:足利義政、北野経王堂を修復。北野経王堂で千部経会(万部経会)を行い330人が出仕したという。(親長記)[13]
  • 1493年(明応2年)10月5日:この年を最後に幕府統制下の覚蔵坊による万部経会は断絶。[14]
  • 1505年(永正2年):勢光という勧進僧が勧進により万部経会を再興。翌年、翌々年にも。[15]
  • 1515年(永正12年):大報恩寺養命坊の春広が将軍足利義稙に提案して勧進による万部経会を再興。以後、養命坊が覚蔵坊職を獲得し、経王堂は大報恩寺の末寺となる。[16]
  • 1521年(大永1年):万部経会、この年を最後に再び中断。
  • 1527年(大永7年)2月3日:桂川原の戦いの前哨戦で、細川尹賢が経王堂に陣を置いた。[17]
  • 1537年(天文6年)10月3日:細川晴元、北野・西京地下人による北野経王堂破却を停止させる(大報恩寺文書)。部材を盗み取られる自体になっていたという。[18]
  • 1540年(天文9年)5月12日:諸国で疫病が流行し、細川晴元が幕府に請願して北野経王堂で施餓鬼会を開く。(大館常興日記)
  • 1540年(天文9年)7月:堯淳という清凉寺勧進僧が北野経王堂の修造の勧進を行う(清凉史略)。1541年(天文10年)とも[19]
  • 1545年(天文14年)3月26日:誓願寺の梵鐘を北野経王堂で鋳造する。(言経卿記)
  • 1545年(天文14年)10月4日:三好政長、北野経王堂で万部経を読誦させる。(言経卿記)
  • 1560年(永禄3年)12月18日:室町幕府、北野経王堂の万部経読誦のため禁制を掲げる。(阿弥陀寺文書)
  • 1561年(永禄4年)2月:三好長慶と松永久秀、北野経王堂に禁制を掲げる(阿弥陀寺文書)
  • 1583年(天正11年)8月10日:北野経王堂で千部経(言経卿記)。
  • 1602年(慶長7年):豊臣秀頼の修復寺社に加えられた。大報恩寺養命坊の舜算の尽力によるという。まもなく(?)舜算が死去。養命坊の帰属を巡り、東寺延暦寺が争うが「官有」となった。[20]
  • 1606年(慶長11年)8月25日:大修復が落慶。この時、最後の万部経会が営まれた。奉行は片桐且元。棟木の全長は80尺、桁行19間(57.5m)、梁間16間(48.5m)、1間10尺の巨大な堂宇だったと現存する旧材から推定されている。[21][22][23][24][25][26]
  • 1607年(慶長12年):大報恩寺養命坊の舜算(?)、豊臣秀頼に経蔵修復を請願。経蔵は建て替え、輪蔵を修復。経蔵の旧堂は大報恩寺に移築して護摩堂としたという。[27]
  • 1613年(慶長18年):伊勢常明寺宗存、北野経王堂で開板事業を始める。1626年(寛永3年)頃まで。
  • 1619年(元和5年):将軍徳川秀忠、智積院日誉に養命坊を隠居所として与え、大報恩寺は真言宗智積院の末寺となり、経王堂はさらにその末寺となった。[28]
  • 1670年(寛文10年)頃:北野経王堂廃絶。あまりに巨大過ぎて維持経費が捻出できなかったためという。1669年(寛文9年)から1670年(寛文10年)にかけて経王堂の旧材で用いて大報恩寺本堂を修復した。北野には小堂が残され、願成就寺の名前を引き継いだ。こちらには釈迦如来・多宝如来の二仏と千手観音が祀られた(山州名跡志)。[29][30][31]。1665年(寛文5年)廃絶という記述もある[32]
  • 1701年(元禄14年)3月:北野社一切経を大修復。巻子本から折本となる。作業は大報恩寺で行われた。[33]
  • 1739年(元文4年):輪蔵を修復。[34]
  • 1870年(明治3年):この頃、北野の願成就寺が廃絶となる。北野社一切経は大報恩寺に移され、経蔵は伊予・瑞応寺に移築された。[35][36]
  • 1954年(昭和29年):大報恩寺本堂を寛文修復以前の姿に復元修復。このとき取り外された北野経王堂の旧材を用いて、観音堂(太子堂)として再建された。[37]



資料

  • 竹内秀雄1937「北野経王堂に就て」『史蹟と古美術』
  • 1954『国宝建造物大報恩寺本堂修理工事報告書』[38]
    • 「北野願成就寺経王堂に関するもの」[39]、図版[40]
  • 臼井信義1959「北野社一切経と経王堂―一切経会と万部経会」『日本仏教』3
  • 文化庁1981『北野経王堂一切経目録』
  • 島田治1994『北野社書写一切経―増吽と増範』
  • 若杉準治1998「経王堂と大報恩寺」『日本の国宝』61
  • 梅澤亜希子2002「室町時代の北野万部経会」
  • 梅澤亜希子2002「室町時代の北野覚蔵坊」[41]
  • 萩野憲司2004「讃岐国水主神社所蔵『外陣大般若経』と『北野社一切経』について」[42]
  • 梅澤亜希子2007「室町時代の北野覚蔵坊―勧進と造営」『佛敎藝術』294
  • 冨島義幸2006「足利義満と北野経王堂」『室町政権の首府構想と京都―室町・北山・東山』
  • 冨島義幸ほか2008「経王堂伝来の美術」『千本釈迦堂大報恩寺の美術と歴史』
  • 武田和昭2008「北野社一切経と覚蔵坊増範」『千本釈迦堂大報恩寺の美術と歴史』
  • 馬場久幸2013「北野一切経の底本とその伝来についての考察」[43]
  • 小林善仁2013「北野天満宮の境内図に関する資料的検討―「北野社域図」 を事例に」[44]
  • 神田大輝2015「広蔵院日辰の北野一切経披見―北野杜一切経にみられる日辰の識語を中心に」[45]
  • 土屋貴裕2018「北野経王堂の変遷―大報恩寺六観音像の移座をめぐって」『京都大報恩寺快慶・定慶のみほとけ展図録』
  • 佐々木勇2019「北野経王堂一切経(北野社一切経)の底本1」[46]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E7%B5%8C%E7%8E%8B%E5%A0%82」より作成

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