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千福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月18日 (木)
千福寺は長安安定坊の東南にあった仏教寺院。顔真卿筆の「千福寺多宝塔感応碑」が知られる。日本の円珍が千福寺で慧思と智顗の真影を拝した。別称は興元寺。大安国寺と左右対象の位置にあり、共に法華道場が置かれた。
歴史
673年、意懐太子の邸宅を寺とした。 7世紀後半、浄土五祖の懐感(生没年不詳)が『釈浄土群疑論』を記したのも千福寺である。 南陽慧忠(675-775)が光宅寺に入る前、762年に千福寺西禅院に最初に滞在。 744年、楚金(698-759)という僧が千福寺に法華道場を開き、49人の僧を集めて法華三昧を始めた。 49人の僧の中には草堂寺の飛錫(生没年不詳)もいた。 752年4月22日、楚金はまた多宝塔を建て、法華経1000部と舎利3000粒を納めたという。同年建立の「千福寺多宝塔感応碑」(西安碑林に現存)によると、ある夜、『法華経』の「多宝塔品」(見宝塔品)を読誦していると、心身泊然として禅定に入るが如くたちまち宝塔が現れ、空中に釈迦の分身の諸仏が遍満し、6年後に宝塔を建てることを誓願したのがきっかけと記す。この塔は「多宝塔」の名称の早いもので、最澄らによって天台宗思想と共に日本にもたらされたと考えられている。ただし建築様式は現在、日本でいう多宝塔と同じであったかは分からない。 東塔院と西塔院があった。 774年頃には飛錫がこの法華道場の検校となっていた。
798年、般若が長安・崇福寺で華厳経(いわゆる「四十華厳」)を訳した時、千福寺からは大通と霊邃が参加している。 845年会昌の廃仏で壊された。846年再興され興元寺と称したが、855年、留学中の円珍が参拝した時には千福寺の名に戻っている。
- 「唐国師千福寺多宝塔院故法華楚金禅師碑」(『金石萃編』104)