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吉田家八神殿代
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月21日 (土)
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- | '''吉田家八神殿代'''は京都吉田の[[大元宮]]内あった神殿。[[神祇官八神殿]]の代わりとされた。[[吉田家]]が司った。[[皇居]]の[[宮中三殿]]の[[神殿]]に合祀された。 | + | '''吉田家八神殿代'''は京都吉田の[[大元宮]]内あった神殿。[[神祇官八神殿]]の代わりとされた。[[吉田神社]]境内。[[吉田家]]が司った。[[皇居]]の[[宮中三殿]]の[[神殿]]に合祀された。 |
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[[file:Kokudo0085.jpg|thumb|300px|大元宮(国土地理院空中写真より)]] | [[file:Kokudo0085.jpg|thumb|300px|大元宮(国土地理院空中写真より)]] | ||
- | + | 1590年(天正18年)3月13日、古代[[神祇官]]の八神殿が[[吉田家斎場所]]に再興される旨の勅許を得た(「吉田家寛文九年注進状」、『職原抄中原家伝秘録』)。これを受けて、4月18日に吉田斎場所に八神殿を奉遷したという(『職原抄中原家伝秘録』)。 | |
- | + | しかしながら、別の史料では1597年(慶長2年)に神祇官跡地の古社殿を吉田に移したともあり(『伯家部類』雅朝王雑談条)、また[[豊臣秀吉]]が築城のときに吉田に移したという説もある。 | |
- | + | 実際に吉田家斎場所八神殿が神祇官代として用いられたのは、1609年(慶長14年)9月16日に伊勢一社奉幣使発遣に使ったのが初例であるという(「吉田家寛文九年注進状」、『孝亮宿禰記』)。しかし、まだ吉田の地位は定まらず、神祇官跡地を用いることもあった。『孝亮宿禰記』の1617年(元和3年)の記述によれば、今回は吉田は使わないと述べ、内野の神祇官跡地に神祇官代を設け、[[東照宮]]への一社奉幣を行ったという。 | |
[[白川家八神殿代]]が鎮魂祭の斎場となったのに対して吉田家の八神殿代は勅使発遣の場として用いられた。 | [[白川家八神殿代]]が鎮魂祭の斎場となったのに対して吉田家の八神殿代は勅使発遣の場として用いられた。 | ||
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2023年1月21日 (土) 時点における最新版
吉田家八神殿代は京都吉田の大元宮内あった神殿。神祇官八神殿の代わりとされた。吉田神社境内。吉田家が司った。皇居の宮中三殿の神殿に合祀された。
歴史
1590年(天正18年)3月13日、古代神祇官の八神殿が吉田家斎場所に再興される旨の勅許を得た(「吉田家寛文九年注進状」、『職原抄中原家伝秘録』)。これを受けて、4月18日に吉田斎場所に八神殿を奉遷したという(『職原抄中原家伝秘録』)。 しかしながら、別の史料では1597年(慶長2年)に神祇官跡地の古社殿を吉田に移したともあり(『伯家部類』雅朝王雑談条)、また豊臣秀吉が築城のときに吉田に移したという説もある。
実際に吉田家斎場所八神殿が神祇官代として用いられたのは、1609年(慶長14年)9月16日に伊勢一社奉幣使発遣に使ったのが初例であるという(「吉田家寛文九年注進状」、『孝亮宿禰記』)。しかし、まだ吉田の地位は定まらず、神祇官跡地を用いることもあった。『孝亮宿禰記』の1617年(元和3年)の記述によれば、今回は吉田は使わないと述べ、内野の神祇官跡地に神祇官代を設け、東照宮への一社奉幣を行ったという。 白川家八神殿代が鎮魂祭の斎場となったのに対して吉田家の八神殿代は勅使発遣の場として用いられた。