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土御門天皇旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 土御門天皇は、承久の乱敗北により、土佐、そして阿波に配流された。当時、土御門天皇は弟の[[順徳天皇]]に譲位して上皇となっていたが、実権は父の[[後鳥羽上皇]]が握っており、挙兵には関与していなかった。そのため、鎌倉幕府も土御門上皇を処罰の対象と考えていなかったが、父帝が配流となったのに自分のみ京に留まるのは偲びないとして、自ら配流となり、承久3年(1221)10月、土佐に流された。貞応2年(1223)5月27日、幕府の配慮により、京に近い阿波に移された。阿波には9年間滞在。寛喜3年(1231)10月11日、阿波で崩御し、火葬された(阿波神社由緒)。遺骨は京へ奉遷され、西山[[土御門天皇陵|金原法華堂]]に葬られた。嵯峨[[二尊院]]にも供養塔がある。 明治になり[[水無瀬神宮]]に合祀された。 | ||
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2016年5月2日 (月) 時点における版
土御門天皇旧跡 |
目次 |
概要
土御門天皇は、承久の乱敗北により、土佐、そして阿波に配流された。当時、土御門天皇は弟の順徳天皇に譲位して上皇となっていたが、実権は父の後鳥羽上皇が握っており、挙兵には関与していなかった。そのため、鎌倉幕府も土御門上皇を処罰の対象と考えていなかったが、父帝が配流となったのに自分のみ京に留まるのは偲びないとして、自ら配流となり、承久3年(1221)10月、土佐に流された。貞応2年(1223)5月27日、幕府の配慮により、京に近い阿波に移された。阿波には9年間滞在。寛喜3年(1231)10月11日、阿波で崩御し、火葬された(阿波神社由緒)。遺骨は京へ奉遷され、西山金原法華堂に葬られた。嵯峨二尊院にも供養塔がある。 明治になり水無瀬神宮に合祀された。