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大山阿夫利神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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大山阿夫利神社(おおやま・あふり・じんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の相模大山にある、石尊信仰の総本社。県社別表神社大山阿夫利神社本庁を組織する。


組織

宮司・祠官

典拠[1][2]

  • 1権田直助(1809-1887)<1873-1887>:幕末明治の国学者。武蔵国入間郡の医師の家出身。安積艮斎、平田篤胤に師事。文久2年に上京して国事に奔走。明治2年、白川家教授。同年、大学中博士、皇漢医道御用掛。明治4年の攘夷派弾圧で免官幽閉。明治6年7月30日、大山阿夫利神社祠官兼大講義。明治12年、権大教正。12年から14年まで三島大社宮司を兼務。15年、皇典講究所教授。17年、神道事務局顧問、大教正。1887年6月8日死去[3]。墓所は、大山の赤松山墓地。数多くの門人がいた。
  • 2内海政雄(1843-1895)<1887-1895>:

1873年、三島神社主典、権禰宜。1874年、教導職権大講義。1875年、神道事務局から青森県などの巡察を命じられる。 三島神社少宮司となり、足柄神道分局長、静岡神道分局長を兼ねる。1878年、明治天皇行幸で先導する。権少教正[4]。1879年、岩木山神社宮司に任命されるが辞職。1880年4月、大山阿夫利神社副祠官となる。1887年、大山阿夫利神社祠官。神道本局幹事。神道本局参事会長。天理教との交渉にもたびたび当たる。1895年2月23日死去。贈大教正。子に国文学者の内海弘蔵。著書『阿夫利神社古今事記』。記念碑銘[5]

  • 3内海景弓(1846-1923)<1891->:町会議員。神道事務局大山分局長。大教正。
  • 4目黒和三郎(1865-1923)<1915->:権田直助に師事。専修学校(専修大学)卒。明治36年、国学院主事、兼皇典講究所幹事。芝金刀比羅宮社司。大山阿夫利神社祠官、龍田大社宮司、大神神社宮司を歴任。
  • 5小林順三(1876-1944)<1920->:大山出身。1900年国学院大学卒。千葉中学校勤務を経て大山阿夫利神社社掌。神奈川県皇典講究分所彰風学館講師、神道事務局大山分局長など歴任。1920年、大山阿夫利神社社司。中教正。全国神職会評議員。1944年死去。
  • 6目黒潔(1895-)<1944->:目黒和三郎の子。1895年生。1916年、国学院大学予科修了。1933年、大山阿夫利神社社掌。1944年(1945年とも)社司(のち宮司)。戦後、大山阿夫利神社本庁を設立し管長に就任する。1948年、神道指令違反を問われる「大山事件」で起訴されたが無罪となる[6]
  • 7目黒修一(1922-)<1980-2002>:国学院大学卒。1980年、大山阿夫利神社宮司
  • 8目黒仁()<2002->:2002年10月6日、大山阿夫利神社宮司。


権宮司

  • 古宮惣左衛門()<>:1947年(昭和22年)8月22日就任。1949年(昭和24年)5月12日退任。著書『神祇官』[7]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%98%BF%E5%A4%AB%E5%88%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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