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大阪護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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大阪護国神社・拝殿

大阪護国神社(おおさか・ごこくじんじゃ)は、大阪府大阪市住之江区南加賀屋にある、府内の戦没者などを祀る招魂社内務大臣指定護国神社。占領中の名称は浪速宮

目次

祭神

大阪護国神社・本殿

平成年間作成とみられるしおりには10万5600柱余りとある。祭神の半数近くがサイパン島での戦没者という。 『靖国神社百年史』では戦没者10万2254柱とあり、「全国護国神社一覧」では10万5649柱(内訳は本籍大阪府8万1714柱と大阪在住2万3935柱)とある。指定護国神社級で祭神が10万柱を超えるのは3社のみであり、沖縄県護国神社福岡県護国神社に次いで3番目の祭神数となっている。

歴史

大阪護国神社・奉安殿
大阪護国神社・参集所

府立住之江公園の南隣に位置する。

前史

大阪府内には1869年(明治2年)創建で官祭招魂社大江護国神社が既にあったが、山口藩戦死者に限られたものだった。

1883年(明治16年)3月、中之島に西南戦争の慰霊碑「明治紀念標」を建立。靖国神社春季例大祭の日にあたる5月6日を祭日として第1回の招魂祭が行われた。管理運営は大阪偕行社が担った。1891年(明治24年)、明治紀念標の管理は大阪奨武会に移ったが招魂祭は大阪偕行社と大阪奨武会の共同で行うようになった。大阪府全域で招魂祭を行うこととなり、1900年(明治33年)に弔魂会が設立され、斎場を城東練兵場に移して招魂祭を主催するようになった。靖国神社秋季例大祭の祭日にあたる11月6日に第1回の招魂祭が城東練兵場に祭壇を設けて実施。第4師団に縁故の戦没者を祀った。招魂祭での神璽となる「霊名簿」は大阪偕行社で保管。霊名簿には第4師団に所属し、あるいは第4師団出身者で他師団に所属した戦死者の官姓名を記した。毎年、祭典前日に唐櫃に納めて行列を組んで祭壇に奉安した。1928年(昭和3年)に祭典日は5月5日に変更された。

創建過程

大阪府知事池田清が大阪招魂社の創建を計画。府県ごとに護国神社が設置されていく時期にあたり、招魂社としては遅い時期の創建といえる。 1938年(昭和13年)4月25日に初めての協議会を知事別館で開催。 「官祭招魂社は祭神の点からも規模の面からも事変関係遺族や一般府民とはほとんど無関係」、「弔魂会による招魂祭は第四師団管区を対象とするもので、他府県にわたっていると同時に、祭祀施設も臨時仮設のもので、遺族および一般市民の日常的な崇敬を充足するものではなかった」として新たな招魂社の建設を決定。大半は一般の寄付をもとに7月までには着工することで確認(7月には間に合わず)。同年9月、内務省は一道府県一社の「招魂社指定標準」を制定。12月22日、大阪府は大阪招魂社造営の大綱を決定した。 1939年(昭和14年)1月、大阪招魂社奉賛会、発足。大阪府知事が奉賛会長となった。事務所は大阪府庁に置かれた。寄付金60万円を募集。選定の過程と決定時期は不明だが住之江公園の一部の1万坪が鎮座地となった。1万坪のうち9100坪は大阪府と大阪市が新たに買収した。 2月20日、地鎮祭。斎主はのちに初代社司となる住吉大社宮司額賀大直が務めた。大阪招魂社愛国勤労奉仕団が組織され、学校、官庁、会社などを動員して工事が進められた。4月30日、大阪府知事以下連名で創立申請を提出。6月6日に内務省より創立許可(内務省阪社第8号)。7月、整地完了。1940年(昭和15年)3月末、仮社殿が竣工した。

1940年(昭和15年)5月4日夜に鎮座。拝殿の右手前に仮殿を設営して降神し、本殿に御霊代を奉遷した。 翌日第1回例祭が行われた。5月5日という祭日は弔魂祭による招魂祭を引き継いだものだった。 祭神は「過去の戦役事変等に於て戦死戦病死及公傷死を遂げられたる勇士にして、既に別格官幣社靖国神社に合祀せられたる御事歴を有せられ、本籍地大阪府と記載せるもの(あるいは「其の御生前、本府に極めて密接なる関係を有せられたるもの」)」とされ、3647柱が最初の祭神となった。祭神名簿は京都伏見の加藤四郎という人物によって3月25日から4月9日にかけて住吉大社社務所でしたためたという。崇敬範囲は「大阪府一円を崇敬区域とするを以て全府民を崇敬者とす」とされた。

鎮座祭の直前、4月22日の大阪府の申請で、4月30日付の内務省告示297号で指定護国神社となった。

当初は仮社殿で、続いて本格的社殿を造営する予定だった。 仮本殿、仮祝詞殿、仮拝殿、仮神饌殿、仮社務所、正面鳥居、北鳥居、南鳥居などが完成。他に参列殿、英霊殿、斎庭、神庫が計画されていた。斎庭は招魂式に用いる斎場と思われるが、英霊殿は何か不詳である。建設資金は60万円を目標に募金したが、72万円が集まった。

正式な社殿は本殿、祝詞殿、渡廊、拝殿、左右翼廊、神饌所、祭器庫、左右参列殿が構想されていた(いわゆる護国神社様式と思われる)。 しかし、戦争の激化で難しくなり、1945年(昭和20年)の敗戦で頓挫した。

1940年(昭和15年)の予算は3万1000円で、収入のうち3分の1近い1万9000円は奉賛会、弔魂会、崇敬者による寄付で、大阪府からの神饌幣帛料は90円、国庫・大阪府・各市町村からの供進金は6500円だった。

占領下

占領下では1946年(昭和21年)9月30日に浪速宮と改称し、大阪の街を開いた祖として仁徳天皇を合祀した(仁徳天皇はのち奉安殿に遷座)。1952(昭和27)6月27日に大阪護国神社に復称した。

1960年(昭和35年)に造営奉賛会が設立され 1963年(昭和38年)5月29日に現在の社殿が造営され、遷座祭が執行された。

(大阪護國神社ウェブサイト、『大阪護国神社史』ほか)

境内

大阪護国神社・祖霊舎
大阪護国神社・鳥居
  • 本社:いわゆる護国神社様式は採用されていない。
  • 奉安殿:祭神は仁徳天皇東郷平八郎。東郷平八郎がイギリスからの帰国の折に丹波丸船中で調髪した時の髪を奉安するという。
  • 祖霊社ほまれの宮:祭神と縁故のある戦友や遺族や物故崇敬者を祀る祖霊社
  • 慰霊碑群:30基以上の慰霊碑が並ぶ。

組織

宮司・社司

  • 1額賀大直(1877-1961)<1940-1940>:本務は住吉大社宮司。1940年(昭和15年)5月1日、大阪護国神社社司を兼務。(略歴は香取神宮#組織を参照)
  • 2戸波弁次()<1940->:陸軍少将。1940年(昭和15年)7月31日、大阪護国神社社司。
  • 3三宅篤夫()<1945->:陸軍少将。難波神社社司。1945年(昭和20年)6月4日、大阪護国神社社司を兼務。9月30日辞職願。
  • 4柳沢寮()<1946->:大阪護国神社社掌。1945年(昭和20年)9月30日頃、社司代務。1946年(昭和21年)9月30日、宮司。天満宮宮司を兼務。
  • 5柳沢忠麿(?-2018)<?-2018>:2018年(平成30年)3月31日死去。
  • 6南坊城充興()<2018-2021>:2018年(平成30年)7月1日就任。2021年(令和3年)退任。
  • 7藤江正鎮()<2021->:2021年(令和3年)宮司。

資料

  • 大阪護國神社ウェブサイト
  • 森一雄1939「大阪護国神社造営工事概要」『公園緑地』3-12
  • 1992『大阪護国神社史』
  • 1995『大阪護国神社戦争慰霊碑集 : 終戦五十周年記念』
  • 1995『大阪府忠魂碑等調査集 : 終戦五十年記念』
  • 2005『大阪護国神社 : 終戦六十周年』大阪護国神社社務所
  • 2015『大阪戦争モノ語り : 街かどの「戦跡」をたずねて』
  • 社報『大阪護国』
  • 『大阪護国神社叢書』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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