出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年7月30日 (火)
山形県護国神社(やまがたけん・ごこくじんじゃ)は、山形県山形市薬師町の馬見ケ崎川の南岸の千歳公園にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。官祭招魂社。内務大臣指定護国神社。神社本庁別表神社。
山形招魂社、山形県招魂社。占領期の名前は千歳宮。
歴史
「官祭山形招魂社」碑。「官祭」の文字が抹消されている
- 1869年(明治2年)1月:鹿児島藩、山形市小荷駄町(八日町東原643?)に戊辰戦争戦没者の鹿児島藩大砲長の久永龍助以下10柱を祀り創立。毎年2月20日・9月20日を例祭とする。(『明治七年山形県史』[1]、『山形県通覧』[2]、『靖国神社誌』。一説では2月20日)
- 1875年(明治8年)6月:官祭招魂社となる。以後9月20日を例祭日とする。(『靖国神社百年史』『山形県通覧』)。
- 1876年(明治9年):山形藩大久保伝平ら16柱を合祀。(『山形県通覧』。16柱だと次の合祀に計算が合わない)
- 1878年(明治11年)8月7日:鹿児島藩10柱、山形藩12柱、上山藩2柱を祀っているところ、まもなく予定される遷宮に合わせて、神官白田外記ほか1柱(三浦蔵人とみられる)と西南戦争戦死者130柱を合祀するように達す(山形県布達乙第78号[3])。「白田外記家文書」によると白田外記と三浦蔵人は最初、天童招魂社に祀られたが、山形招魂社に「改祭」されたという(8月6日とする。朝日町史編集資料[4])。また西南戦争の戦没者136柱合祀を『山形県通覧』では1878年(明治11年)7月とする。
- 1878年(明治11年)9月:遷宮を10月1日だと告知し、遺族や一般にも参拝を呼び掛ける(山形県布達乙89号[5])。
- 1878年(明治11年)10月1日:社殿が竣工し遷宮と合祀(山形県布達乙89号)
- 1879年(明治12年)9月15日:合祀漏れの西南戦争戦没者を合祀(山形県布達乙163号[6])。例祭もこの日に執行。
- 1880年(明治13年)11月:米沢藩の堀尾啓助ほか1柱(松本誠蔵とみられる)合祀(『山形県議会八十年史』[7])。
- 1882年(明治15年)3月:山形招魂社・天童招魂社・新荘招魂社の3社の例祭日を5月6日に改定統一する(山形県布達乙第36号[8])。1879年(明治12年)9月に1880年(明治13年)以降11月6日に改定統一する(山形県布達乙163号)が変更になる。
- 1887年(明治20年)10月:山形県、「招魂社并官軍墳墓修繕費及監査の件」(達庶第241号)を達す。
- 1888年(明治21年)10月:山形市宮町2267の千歳公園内に遷座(『靖国神社百年史』『山形県通覧』)
- 1890年(明治23年)4月:山形県、招魂社費と招魂社営繕費の取扱順序を制定(達一庶125号[9])。招魂社費は山形招魂社が金16円50銭、天童招魂社13円50銭、新荘招魂社は24円。招魂社営繕費は山形招魂社が25円ずつとし、そのうち5円を受持神官の年給とする。
- 1911年(明治44年)5月8日:山形市大火で社殿焼失(『山形県議会八十年史』)
- 1912年(大正1年)2月:仮殿造営。(『神道史大辞典』)
- 1913年(大正2年)3月:薬師町に再建(『神道史大辞典』『山形県議会八十年史』)
- 1918年(大正7年)4月:日清戦争420柱、霧社事件12柱、日露戦争1320柱、日独戦争の戦没者を合祀(『山形県議会八十年史』)
- 1920年(大正9年)7月1日:山形招魂社で尼港事件犠牲者の慰霊祭。(『山形市史年表』[10])
- 1933年(昭和8年)3月13日:官祭山形県招魂社と改称。(『山形県議会八十年史』)
- 1934年(昭和9年)10月28日:現在地に新社殿造営、遷座。(『靖国神社百年史』)
- 1935年(昭和10年):満洲事変戦没者を合祀。(神社ウェブサイト)
- 1939年(昭和14年)4月1日:内務大臣指定護国神社となり「山形県護国神社」と改称。(『靖国神社百年史』)
- 1941年(昭和16年)10月27日:日中戦争戦没者1269柱を合祀(『山形県議会八十年史』)
- 1947年(昭和22年)4月13日:「千歳宮」と改称。(『全国護国神社会二十五年史』、『山形県議会八十年史』では1946年(昭和21年)10月4日)
- 1952年(昭和27年)12月6日:山形県護国神社に復す。(神社ウェブサイト)
- 1953年(昭和28年)5月29日:別表神社に加列。(神社ウェブサイト)
- 1960年(昭和35年)5月9日:植樹祭行幸に際して幣帛料(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1960年(昭和35年)10月28日:合祀概了奉告祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1961年(昭和36年)10月6日:幣帛料。秋田県国体行幸(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1965年(昭和40年)11月2日:終戦20周年祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1966年(昭和41年):この年までに祭神3万8468柱。(『山形県議会八十年史』)
- 1967年(昭和42年)5月1日:参集所竣工(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1969年(昭和44年)11月2日:創建100年記念大祭(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1970年(昭和45年)7月26日:参集所改修竣工。報国式(『全国護国神社会二十五年史』)
- 1994年(平成6年):拝殿改修。(神社ウェブサイト)
境内
祭神
- 26柱(明治44年『靖国神社誌』)
- 30091柱:1972年(昭和47年)5月現在(1982山形市史[11])
- 39091柱(『靖国神社百年史』)
- 40845柱(1990年11月現在。由緒書、神社ウェブサイトなど)
官祭祭神
- 官祭山形招魂社時代の官祭祭神。1911年(明治44年)『靖国神社誌』や『山形県神社要覧』[12]の1932年(昭和7年)末時点で官祭祭神は26柱とある。
- 典拠は『明治七年山形県史』の祭神一覧[13]に、山形県行幸記[14]の戦死者一覧から山形藩10人を加えた。これだけだと26柱という数字に達しないので、山形県布達[15]の記述から上山藩2人、神職2人も官祭祭神だと判断して加えた。
- 靖国神社合祀は靖国神社忠魂史[16][17]、または官報で確認した。
- 賊軍も含む山形藩の殉難者については山形藩殉難者招魂碑も参照。
官祭山形招魂社・官祭祭神一覧
順
| 名前
| 生没年
| 所属
| 死去
| 死因
| 靖国
| 招魂社
| 官修墳墓
| 贈位
| 略歴
|
1
| 田尻平太郎
| 1854-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 山形薬師公園官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、寒河江で戦死。忠魂史では島村で戦死。兵具三番隊15歳。
|
2
| 徳田助左衛門
| 1854-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、長岡山で戦死。忠魂史では10月10日戦死とある。兵具十番隊15歳。
|
3
| 久永龍助
| 1846-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では22日庄内米沢村で戦死。二番大砲隊長23歳。
|
4
| 内丸休太夫
| ?-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では寒河江。番兵二番隊30歳。
|
5
| 谷崎喜左衛門
| ?-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では2日戦死。兵具二番隊26歳。
|
6
| 久保源藤
| 1848-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では21日戦死。二番砲隊21歳。
|
7
| 本吉正八郎
| 1846-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では10月20日戦死とある。兵具二番隊23歳。
|
8
| 隈元仙太郎
| 1836-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では9月島村で戦死とのみある。33歳。
|
9
| 池田覚十郎
| 1846-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 合祀
| 鹿児島藩招魂社
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。忠魂史では月日場所空欄。番兵二番隊23歳。
|
10
| 清吉
| ?-1868
| 鹿児島藩
| 1868年(明治1年)9月20日
| 戦死
| 確認できず
|
| 鹿児島藩山形官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月20日、白岩村で戦死。二番砲隊夫卒享年不詳。
|
11
| 大久保伝平
| 1817-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形浄光寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。52歳。
|
12
| 赤星守人
| 1828-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形長源寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。41歳。
|
13
| 松崎竹四郎
| 1841-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形大宝寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。28歳。
|
14
| 鳥居吉次郎
| ?-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形願重寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。享年不詳。
|
15
| 加藤雅蔵
| 1836-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形浄光寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。33歳。
|
16
| 前田庄助
| 1811-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形大宝寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。58歳。
|
17
| 稲葉半兵衛
| 1828-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形来迎寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。41歳。
|
18
| 高宮猪兵衛
| 1842-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形光明寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。27歳。
|
19
| 原田喜平太
| 1832-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 不詳
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。37歳。墓所は山形明善寺だが、官修墳墓一覧[18]にはない。しかし、形状が他の官修墳墓と同じであることや一覧に44カ所のはずが42カ所しかないことを考えると一覧の記載漏れの可能性もある。
|
20
| 小林栄
| 1837-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形光禅寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。32歳。
|
21
| 柘植仲蔵
| 1838-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形来迎寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。31歳。
|
22
| 永井熊次郎
| 1843-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
| 山形浄光寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。26歳。
|
23
| 菅谷友尉
| 1850-1868
| 上山藩
| 1868年(明治1年)4月23日
| 戦死
| 合祀
|
| 上山浄光寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)4月23日戦死(忠魂史)。19歳。
|
24
| 谷野広年
| 1852-1868
| 上山藩
| 1868年(明治1年)4月23日
| 戦死
| 合祀
|
| 上山浄光寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)4月23日戦死(忠魂史)。17歳。
|
25
| 白田外記
| ?-1868
| 白河藩
| 1868年(明治1年)4月27日
| 戦死
| 1891年(明治24年)11月5日
|
| 朝日町永林寺官修墳墓
|
| 大谷天満宮の神職。1868年(明治1年)4月27日、賊軍に捕まり斬首(北村山郡史 [19])(24日とも[20])。忠魂史では年月日場所不明としている[21]。1878年(明治11年)10月1日、山形招魂社に合祀。「明治維新年の時に於ける白田外記三浦蔵人両神官の勤王事績について」[22]
|
26
| 三浦蔵人
| 1824-1868
| 松前藩
| 1868年(明治1年)4月27日
| 戦死
| 1891年(明治24年)11月5日
|
| 朝日町永林寺官修墳墓
|
| 東根八幡神社の神職。1824年(文政7年)生。1868年(明治1年)4月27日、白岩村で賊軍に捕まり斬首。43歳(北村山郡史 [23])。忠魂史では年月日場所不明としている[24]。1878年(明治11年)10月1日、山形招魂社に合祀。
|
私祭祭神・非祭神戦死者
順
| 名前
| 生没年
| 所属
| 死去
| 死因
| 靖国
| 招魂社
| 官修墳墓
| 贈位
| 略歴
|
1
| 堀尾啓助
| 1851-1868
| 米沢藩
| 1868年(明治1年)9月23日
| 戦死
| 1879年(明治12年)6月24日[25]
|
| 米沢輪王寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月23日戦死。忠魂史では年月日場所不明としている[26]。靖国神社合祀後の1880年(明治13年)11月に山形招魂社に合祀したという[27]。
|
2
| 松本誠蔵
| 1840-1868
| 米沢藩
| 1868年(明治1年)9月23日
| 戦死
| 1879年(明治12年)6月24日[28]
|
| 米沢東源寺官修墳墓
|
| 1868年(明治1年)9月23日戦死。忠魂史では年月日場所不明としている[29]。靖国神社合祀後の1880年(明治13年)11月に山形招魂社に合祀したという[30]。
|
非
| (助作)
| 1835-1868
| 山形藩
| 1868年(明治1年)閏4月4日
| 戦死
| 合祀
|
|
|
| 靖国神社祭神だが、山形招魂社官祭祭神にはなっていないようだ。農民。1868年(明治1年)閏4月4日戦死(忠魂史)。
|
組織
受持神官・宮司
- 梅本俊次()<>:1935年(昭和10年)現在、「山形県招魂社社司」とある[31]
画像
資料
- 1874『明治七年山形県史』[32](国会図書館デジタルコレクションで館内限定に変更された)
- 1894『山形県社寺令規』「招魂社・官軍墳墓」[33]
- 1916『山形県行幸記』「戊辰戦死者」[34]:山形藩、上山藩、天童藩、仙台藩、新庄藩、米沢藩。
- 1933『山形県神社要覧』「官祭招魂社」[35]
- 1975『山形市史』「招魂社建立と合祀」[36]
- 1982『山形市史・年表索引編』「山形県護国神社」[37]
- 『小林福太郎氏遺作集』「山形県護国神社」[38]:境内図。立面図
- 『山形県招魂社誌』:目録[39]