ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
性応寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年3月5日 (火)
(版間での差分)
(間の4版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
- | '''性応寺'''(しょうおうじ)は、鹿児島県姶良市加治木町にある[[浄土真宗]]寺院。元は[[ | + | '''性応寺'''(しょうおうじ)は、鹿児島県姶良市加治木町にある[[浄土真宗]]寺院。元は[[端坊]]、[[東坊]]と共に[[京都・興正寺]]末寺頭三カ寺の一つだったが、現在は[[浄土真宗本願寺派]]。堺に創建され、和歌山を経て明治に鹿児島に移った。元は'''阿弥陀寺'''と称した。(参考:同名寺院[[阿弥陀寺]]) |
- | + | ||
- | [[ | + | |
- | + | ||
- | + | ||
+ | ==歴史== | ||
+ | *不詳:[[楠木氏]]出身の安満了願が堺に創建。了願は『太平記』にも阿間了願として登場する。 | ||
+ | *1482年(文明14年):興正寺が[[仏光寺]]から分裂した。同じ頃、仏光寺末から興正寺末に移ったとみられる。 | ||
+ | *1550年(天文19年):堺から和歌山(和歌山県和歌山市和歌浦中2丁目)に移転して性応寺と改称。 | ||
+ | *近世:京都に屋敷を与えられ、住職は京都常住とされ、和歌山には留守居を置いた。了尊は准如に重用され、[[西本願寺]]の[[一家衆]]とされた。 | ||
+ | *明治初年:鹿児島布教に従事。 | ||
+ | *1878年(明治11年):本堂が本願寺鹿児島出張所([[本願寺鹿児島別院]])に移築された。 | ||
+ | *不詳:新たに加治木に出張所を設置 | ||
+ | *1884年(明治17年):加治木出張所が性応寺と改称する。 | ||
+ | <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> | ||
+ | file:性応寺001.jpg| | ||
+ | file:性応寺002.jpg| | ||
+ | file:性応寺003.jpg| | ||
+ | file:性応寺004.jpg| | ||
+ | </gallery> | ||
[[category:鹿児島県]] | [[category:鹿児島県]] |
2024年3月5日 (火) 時点における最新版
性応寺(しょうおうじ)は、鹿児島県姶良市加治木町にある浄土真宗寺院。元は端坊、東坊と共に京都・興正寺末寺頭三カ寺の一つだったが、現在は浄土真宗本願寺派。堺に創建され、和歌山を経て明治に鹿児島に移った。元は阿弥陀寺と称した。(参考:同名寺院阿弥陀寺)
歴史
- 不詳:楠木氏出身の安満了願が堺に創建。了願は『太平記』にも阿間了願として登場する。
- 1482年(文明14年):興正寺が仏光寺から分裂した。同じ頃、仏光寺末から興正寺末に移ったとみられる。
- 1550年(天文19年):堺から和歌山(和歌山県和歌山市和歌浦中2丁目)に移転して性応寺と改称。
- 近世:京都に屋敷を与えられ、住職は京都常住とされ、和歌山には留守居を置いた。了尊は准如に重用され、西本願寺の一家衆とされた。
- 明治初年:鹿児島布教に従事。
- 1878年(明治11年):本堂が本願寺鹿児島出張所(本願寺鹿児島別院)に移築された。
- 不詳:新たに加治木に出張所を設置
- 1884年(明治17年):加治木出張所が性応寺と改称する。