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愛宕神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2023年12月24日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
愛宕神社(あたご・じんじゃ)は、京都府京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山にある、愛宕信仰の総本社。府社。
愛宕野宮両神社御旅所が京都・清凉寺の近くにある。
歴史
- 大宝年間:役小角が泰澄と共に登り、朝日峰に神廟を建てた(白雲寺縁起)
- 不詳:丹波国桑田郡国分村にも祀られた
- 不詳:国分村から鷹峰に遷座
- 781年:慶俊が鷹峰から愛宕山に遷座
- 864年5月10日:朝廷、「丹波国正六位上愛当護神」に従五位下。(三代実録)
- 872年11月29日:朝廷、「阿当護神」に従五位上。(三代実録)
- 879年10月24日:朝廷、「阿当護神」に従四位下。(三代実録)
- 880年4月29日:朝廷、「丹波国阿当護山」の「無位雷神」「破無神「に従五位下とある。(三代実録)
- 927年:延喜式神名帳に丹波国桑田郡に「阿多古神社」を記載。
- 982年6月2日:源惟章と源遠理が「愛宕護山」で出家(日本紀略)。
- 987年頃:奝然、愛宕山に延暦寺に対抗できるような寺院建立を計画するが果たせず。その意志を継いで弟子が嵯峨清凉寺を創建。
- 988年:愛宕山に戒壇が設置されるが、延暦寺の訴えで勅が覆る(帝王編年記)
- 1467年:応仁の乱で炎上(経覚私要鈔)
- 1571年:宝蔵院創建
- 1588年8月9日:毛利輝元、参詣。(輝元公御上洛日記)
- 1645年1月24日:焼失。(隔〓記)
- 1690年:修復。
- 1798年4月5日:山火事で焼失(嵯峨誌)
- 1868年:神仏分離
- 1881年(明治14年)6月:府社列格
境内・関連旧跡
愛宕山も参照。
名称 | 祭神 | 概要 |
---|---|---|
本社 | 伊弉冉尊・埴山姫神・天熊人命・稚産霊命・豊受姫命 | |
若宮 | 雷神・迦倶槌命・破無神 | |
奥宮 | 厳島社・水分社・護王社(和気清麻呂か)・太郎子社(不詳)・大国主社・司箭社(不詳)・日吉社・春日社・蛭子社 | |
神明社 | 天照大神 | |
熊野社 | 伊弉諾尊 | |
白鬚社 | 白髪社・修羅髭社・白浪社 | |
中川好庵社 | 中川好庵 | 有功社とも。祭神は中川好庵(?-1843)。中川重行。桑田郡広田村の近藤清右衛門の実弟で総三郎といった。中川家九郎右衛門の婿養子となる。1795年(寛政7年)愛宕山福寿院に勤仕。1822年(文政5年)、福寿院の譜代の坊人に取り立てられた。1800年(寛政12年)の焼失以来、仮殿のままの社殿伽藍の再建に取り掛かり、京都町奉行から造営元締に任じられた。1835年(天保6年)に起工し、1836年(天保7年)に竣工して遷座。同年、大覚寺宮から感状を賜り、法橋位に叙せられた。1837年(天保8年)には法眼位となった。引き続き、境内や石段を整備し、1839年(天保10年)に完成。一山の住侶も感嘆し、五院が連署して紀功文を贈り、木像を造立した。木像は役小角・慶俊と共に祀って有功社といった(生祠ということか)。1843年(天保14年)死去。曾孫に立命館大学創始者の中川小十郎がいる。(『婦人の力と帝国の将来』[1]) |
慶俊社 | 慶俊 | 祭神は慶俊。慶俊は奈良時代の僧侶で、愛宕神社の中興。 |
稲荷社 | 稲荷神 | |
白吉龍神社 | 龍神 | |
石 | 磐座?鳥居のそばにある | |
神門 | ||
社務所 | ||
片山久安記念碑 | 片山久安は片山伯耆流を開いた剣豪。 | |
御旅所 | 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町。愛宕神社と嵯峨野宮神社の共同の御旅所。京都・清凉寺の門前にある。 | |
亀岡・愛宕神社 | 京都府亀岡市千歳町国分。愛宕神社の元宮といわれる。 |