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愛染寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年8月20日 (火)

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==概要==
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社家は分社への「正一位」授与は一子相伝の修法であり門外不出であると主張していたが、愛染寺でも「正一位」を出していた。
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泉涌寺末。
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寺院とはいうものの仏堂は敷地の片隅にあるだけであり、大きな書院、客殿が敷地の中央に建っていた。
書院、客殿は徳川家茂や一橋慶喜が何度か休息に使った。
書院、客殿は徳川家茂や一橋慶喜が何度か休息に使った。
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『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』
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(『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』)
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==脚注==
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2019年8月20日 (火) 時点における最新版

開山 天阿上人墓

愛染寺(あいぜんじ)は山城国紀伊郡(京都府京都市伏見区深草藪之内町)にあった真言宗寺院。本尊は愛染明王伏見稲荷大社の本願所だった。泉涌寺末。廃絶。 (参考:同名寺院愛染院

歴史

1468年3月の戦火で伏見稲荷大社の社殿が焼失。1499年に現在の本殿が再建された。 この復興を担ったのが「十穀聖」と呼ばれる僧侶だった。応仁の乱以前にも「十穀坊」「十石坊」の名が見える。各地を勧進して浄財を集め、稲荷信仰を広めた。 やがて寺院として体裁を整えるようになり、1655年5月に建てられた愛染堂が本堂となった。ほかに聖天堂があった。 愛染寺の名前の初出は1633年であるという。天阿日雄(1599-1674、慶宝寺近江・神照寺)の時代に当たる。

伏見稲荷大社の社家と対立しながらも、愛染寺配下の僧侶は御師として活動し荼枳尼天弁財天歓喜天を三大和合尊として喧伝した。 祈祷、配札だけでなく各地への稲荷社の勧請も行った。 社家は分社への「正一位」授与は一子相伝の修法であり門外不出であると主張していたが、愛染寺でも「正一位」を出していた。 文化年間には社家が愛染寺の稲荷勧請の停止を幕府に訴えたが、認められなかった。

寺院とはいうものの仏堂は敷地の片隅にあるだけであり、大きな書院、客殿が敷地の中央に建っていた。 書院、客殿は徳川家茂や一橋慶喜が何度か休息に使った。 (『伏見稲荷大社御鎮座千三百年史』)

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