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曇華院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年5月21日 (日)
曇華院(どんげいん)は、京都府京都市右京区嵯峨にある臨済宗の尼門跡寺院。本尊は十一面観音。臨済宗単立。鹿王院の南にある。曇華院門跡。竹御所。曇華院宮墓地は大徳寺養徳院内にある。
目次 |
歴史
- 1380年(天授6年/康暦2年):通玄寺開山の智泉聖通(1309-1388)が創建。烏丸御池(京都市中京区曇華院前町)の高倉宮御所跡にあった。当初は曇華庵といった。
- 応仁の乱で焼失した通玄寺を合併。
- 1603年(慶長8年):焼失。
- 1678年(延宝6年):後西院の院旨により復興。御殿を建て、什物を寄進した。後西天皇を中興の大功徳主と称す。皇女が黙堂聖安女王(1668-1712)が入ったのもこの時か。
- 1807年(文化4年):竹御所の号を賜る。
- 1864年(元治1年):焼失。
- 1871年(明治4年)(1876年(明治9年)とも):嵯峨に移転。鹿王院塔頭の瑞応院を買得して再興した。
松巌寺が代々、戒師を務めた。684石。
組織
住職
- 玉江聖珊女王まで『通玄寺志』。秀峰聖清女王まで「通玄寺歴世」[1]、『比丘尼御所諡号考』[2]。
- 28~30は「天上の華々」[3]などによる。
- 『比丘尼御所諡号考』の曇華院の歴代と、『通玄寺志』や「通玄寺歴世」に記載する通玄寺の歴代とほぼ一致する。通玄寺は応仁の乱で廃絶し、曇華院に合併されたことから、これらに近世文書にある通玄寺の歴代とは曇華院の歴代のことと思われる。曇華院側は曇華院の歴代を形式上そのまま通玄寺の歴代とみなしたのだと思われる。
世数 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 智泉聖通 | 1309-1388 | 将軍足利義詮の外祖母。四辻宮尊雅王王女(松岩寺善成娘とも)。1309年(延慶2年)生。夢窓疎石に師事。天龍寺の無極志玄の姉妹。石清水八幡宮の善法寺通清の夫人。通玄寺、曇華院門跡を創建。1388年(元中5年/嘉慶2年)11月25日死去。贈賜紫衣。 | |
2 | 一渓正元 | 生没年不詳 | 1395年(応永2年)4月13日死去とも、1415年(応永22年)4月13日死去とも、1491年(延徳3年)5月2日死去とも。一渓正統とも。 | |
3 | 文海景寿 | 生没年不詳 | 1408年(応永15年)10月19日死去か。文海景樹、文海景周とも。 | |
4 | 尹珂元助 | ?-1428 | 1428年(正長1年)3月9日死去(比丘尼御所諡号考では2月7日死去)。尹舸元助とも。 | |
5 | 慶内文奇 | ?-1440 | 1440年(永享12年)8月14日死去。慶内崇〓、慶内崇樹とも。(〓は木射) | |
6 | 周〓妙受 | ?-1451 | 1451年(宝徳3年)1月28日死去。『比丘尼御所諡号考』になし。(〓は甄のつくりが欠) | |
7 | 祝慶元寿 | ?-1458 | 1458年(長禄2年)2月15日死去。 | |
8 | 大安周文 | ?-1467 | 1467年(応仁1年)7月25日死去。 | |
9 | 玉輝元珀 | ?-1478 | 1478年(文明10年)9月29日死去。 | |
10 | 芳咸元揉 | ?-1491 | 1491年(延徳3年)12月2日死去。芳咸元操とも。 | |
11 | 月〓宗蜜 | ?-1500 | 1500年(明応9年)8月16日死去。(〓は石易) | |
12 | 文琳聖珠 | ?-1510 | 1510年(永正7年)11月8日死去。 | |
13 | 一天通知 | ?-1531 | 1531年(享禄4年)4月3日死去(比丘尼御所諡号考では5日)。一天通智とも。 | |
14 | 通証宗正 | ?-1543 | 1543年(天文12年)8月19日死去。 | |
15 | 宋喜顕殊 | ?-1557 | 1557年(弘治3年)3月20日死去(比丘尼御所諡号考では7日)。宗喜顕殊とも。 | |
16 | 無文法最 | ?-1569 | 1569年(永禄12年)3月14日死去(比丘尼御所諡号考では2月14日)。年文とも。 | |
17 | 至春慧円 | ?-1581 | 1581年(天正9年)6月7日死去。至奢とも。 | |
瑞雲聖興女王 | 1590-1594 | 後陽成天皇皇女。母は中和門院。1594年(文禄3年)12月13日死去。5歳。「故に住籍に列せず」とある。墓所は曇華院宮墓地。 | ||
18 | 高巌真守 | ?-1595 | 1595年(文禄4年)9月10日死去。 | |
19 | 天悠祖盛 | ?-1603 | 1603年(慶長8年)7月26日死去。 | |
20 | 蘭渓聖秀女王 | 1552-1623 | 後奈良天皇皇女。1623年(元和9年)9月25日死去。墓所は曇華院宮墓地。 | |
21 | 良岳聖久女王 | 1600-1631 | 伏見宮邦房親王王女。1631年(寛永8年)5月7日死去(通玄寺志では2月7日)。墓所は曇華院宮墓地。 | |
22 | 泰岳聖崇女王 | ?-1669 | 伏見宮貞清親王王女。1631年(寛永8年)11月26日喝食登壇。1638年(寛永15年)11月21日祝髪。戒師は天龍寺198世玄英玄洪。1669年(寛文9年)11月23日死去。墓所は曇華院宮墓地。春岳聖崇とも。 | |
23 | 仙岳聖竺女王 | 1634-1670 | 伏見宮貞清親王王女。泰岳聖崇女王の妹。はじめ禅智院に住す。1670年(寛文10年)6月14日死去(通玄寺志では6月4日)。墓所は曇華院宮墓地。豊安聖隆とも。 | |
24 | 黙堂聖安女王 | 1668-1712 | 中興。後西天皇皇女。生母は六条局。幼名は館宮。1670年3歳で入寺。1674年(延宝2年)12月2日喝食登壇。1678年(延宝6年)11月27日祝髪。戒師は松巌寺知堂覚。1707年(宝永4年)11月15日、紫衣を賜る。この頃から慈受院門跡を兼務した。1708年、大火で曇華院も損害を受けたが幕府の援助で復興を果たしたため中興とされる。1712年(正徳2年)12月3日死去。45歳。墓所は曇華院宮墓地。大成聖安とも。清浄観院。漢詩集『曇華集』[4] | |
25 | 崇峰聖祝女王 | 1709-1721 | 東山天皇皇女(霊元天皇皇女とも)。1715年(正徳5年)12月7日喝食登壇。1718年(享保3年)2月19日剃度。戒師は天龍寺211世の月心性湛。1721年(享保6年)4月20日死去。13歳。墓所は曇華院宮墓地。 | |
26 | 玉江聖珊女王(内親王?) | 1721-1759 | 中御門天皇皇女。生母は町局。1728年(享保13年)9月26日喝食登壇。1731年(享保16年)9月22日剃度。戒師は天龍寺213世の雲崖道岱。1735年(享保20年)2月24日二品、内親王。1746年(延享3年)12月24日色衣(紫衣)を賜う。1759年(宝暦9年)11月3日死去。39歳。『通玄寺志』を編纂。墓所は曇華院宮墓地。 | |
27 | 秀峰聖清女王 | 1826-1827 | 光格天皇皇女。1826年(文政9年)6月8日生。1827年(文政10年)8月19日死去。瓔珞珠院宮。墓所は曇華院宮墓地。 | |
28 | 清山慈廉 | 1831-? | 1873-? | 庭田重基の娘。 |
29 | 良山慈孝 | 1898-1994 | ~1957~ | 飛鳥井家出身。飛鳥井恒麿の娘。飛鳥井慈孝。林丘寺兼務。『慈孝尼公御歌』。 |
30 | 狩野孝旻 |
資料
- 財団法人古代学協会1987『高倉宮・曇華院跡第4次調査』[5]