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本願寺西山別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年7月2日 (金)

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'''本願寺西山別院'''(ほんがんじ・にしやま・べついん)は京都府京都市西京区にある[[覚如]]ゆかりの[[浄土真宗]]寺院。[[西本願寺]]の[[浄土真宗本願寺派の別院寺院|別院]]。[[御坊]]。寺号は'''久遠寺'''。'''西山御坊'''。[[覚如墓]](覚祖廟)がある。(参考:同名寺院[[久遠寺_(同名)]])
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[[File:本願寺西山別院_(1).jpg|thumb|550px|西本願寺旧阿弥陀堂を移築した本堂]]
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'''本願寺西山別院'''(ほんがんじ・にしやま・べついん)は京都府京都市西京区にある[[覚如]]ゆかりの[[浄土真宗]]寺院。[[西本願寺]]の[[浄土真宗本願寺派の別院寺院|別院]]。[[御坊]]。寺号は'''久遠寺'''。'''西山御坊'''。'''桂御坊'''。[[覚如墓]](覚祖廟)がある。(参考:同名寺院[[久遠寺_(同名)]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[最澄]]の創建という。1314年(正和3年)、覚恵の遺志を継いだ覚如が創建したとも。
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[[File:本願寺西山別院_(4).jpg|thumb|500px|山門]]
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[[亀山上皇]]から「久遠実成阿弥陀本願寺」の号を下賜されたという。
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[[File:本願寺西山別院_(5).jpg|thumb|300px|「西山御坊」の銘がある灯籠と門]]
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[[最澄]]の創建という。1314年(正和3年)、覚恵の遺志を継いだ[[覚如]]が創建したとも。
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[[亀山上皇]]から1272年(文永9年)、「久遠実成阿弥陀本願寺」の号を下賜されたという。亀山上皇の御所を賜ったともいう。
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1321年(元亨1年)、[[後醍醐天皇]]の勅を得て真宗道場と定められた。
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1336年(延元1年/建武3年)、戦乱で東山大谷の親鸞廟(本願寺)が焼けた時、覚如は久遠寺に住んだ。そして死後、久遠寺に葬られた。
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1336年(延元1年/建武3年)、戦乱で東山大谷の親鸞廟(本願寺)が焼けた時、覚如は久遠寺に住んだ。そして1351年(正平6年/観応2年)の死後、久遠寺に葬られた。妻の善照尼も合葬された。
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衰微して天台宗寺院になったこともあったが、戦国時代に寺内町があった。
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[[光厳天皇]]の御願所となった。
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川島の門徒が寺と土地を[[法林寺]]に寄進。以後、同寺が兼務したが、1670年(寛文10年)8月、本山に献納された。本山により整備が進められ、本堂を建立。[[大谷本廟]]の旧本尊阿弥陀如来を遷座して1673年(延宝1年)12月に落慶した。
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応仁の乱以降は衰微して天文年間には天台宗寺院になっていたが、戦国時代に寺内町があった。
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川島の門徒が寺と土地を[[法林寺]]に寄進。以後、同寺が兼務する道場となったが、1670年(寛文10年)8月、本山[[西本願寺]]に献納され、御坊となった。本山により整備が進められ、本堂を建立。[[大谷本廟]]の旧本尊阿弥陀如来(1661年(寛文1年)作)を遷座して1673年(延宝1年)12月に落慶した。
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1756年(宝暦6年)、本山旧阿弥陀堂を本堂として移築。久遠寺旧堂は[[黒谷・慈敬寺]]に移築された。
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1756年(宝暦6年)、本山旧阿弥陀堂を本堂として移築。1618年(元和4年)に造営されたもの。2000年(平成12年)に改修された。本堂の左余間には覚如の御影が奉掛されている。
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(日本歴史地名大系)
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久遠寺旧堂は[[黒谷・慈敬寺]]に移築された。
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1811年(文化8年)、本山の錦華殿を移築。
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大正時代、学林(のちの中央仏教学院)を設置。
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現在は得度習礼教師教修研修道場が設置されている。
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江戸時代後期の対面所があったが1999年(平成11年)に解体し、研修道場の1階の部屋を対面所としている。
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(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト)
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File:本願寺西山別院_(3).jpg|大玄関と得度習礼教師教修研修道場
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==資料==
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*西山御坊来由書
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*山州名跡志
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*「西山久遠寺記」『大谷本願寺通紀』「別院縁由」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950296/118]
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*『西山別院誌』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822247/]:1902年(明治35年)
[[Category:京都府]]
[[Category:京都府]]

2021年7月2日 (金) 時点における最新版

西本願寺旧阿弥陀堂を移築した本堂

本願寺西山別院(ほんがんじ・にしやま・べついん)は京都府京都市西京区にある覚如ゆかりの浄土真宗寺院。西本願寺別院御坊。寺号は久遠寺西山御坊桂御坊覚如墓(覚祖廟)がある。(参考:同名寺院久遠寺_(同名)

歴史

山門
「西山御坊」の銘がある灯籠と門

最澄の創建という。1314年(正和3年)、覚恵の遺志を継いだ覚如が創建したとも。 亀山上皇から1272年(文永9年)、「久遠実成阿弥陀本願寺」の号を下賜されたという。亀山上皇の御所を賜ったともいう。 1321年(元亨1年)、後醍醐天皇の勅を得て真宗道場と定められた。

1336年(延元1年/建武3年)、戦乱で東山大谷の親鸞廟(本願寺)が焼けた時、覚如は久遠寺に住んだ。そして1351年(正平6年/観応2年)の死後、久遠寺に葬られた。妻の善照尼も合葬された。 光厳天皇の御願所となった。 応仁の乱以降は衰微して天文年間には天台宗寺院になっていたが、戦国時代に寺内町があった。 川島の門徒が寺と土地を法林寺に寄進。以後、同寺が兼務する道場となったが、1670年(寛文10年)8月、本山西本願寺に献納され、御坊となった。本山により整備が進められ、本堂を建立。大谷本廟の旧本尊阿弥陀如来(1661年(寛文1年)作)を遷座して1673年(延宝1年)12月に落慶した。

1756年(宝暦6年)、本山旧阿弥陀堂を本堂として移築。1618年(元和4年)に造営されたもの。2000年(平成12年)に改修された。本堂の左余間には覚如の御影が奉掛されている。 久遠寺旧堂は黒谷・慈敬寺に移築された。 1811年(文化8年)、本山の錦華殿を移築。 1890年(明治23年)、改修。

大正時代、学林(のちの中央仏教学院)を設置。 現在は得度習礼教師教修研修道場が設置されている。

江戸時代後期の対面所があったが1999年(平成11年)に解体し、研修道場の1階の部屋を対面所としている。 毎年4月23日の覚祖会に本願寺式務部侍真による御代香がある。

(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト)

資料

  • 西山御坊来由書
  • 山州名跡志
  • 「西山久遠寺記」『大谷本願寺通紀』「別院縁由」[1]
  • 『西山別院誌』[2]:1902年(明治35年)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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