ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

毛利本家祖霊社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?歴史)
(?歴史)
3行: 3行:
==歴史==
==歴史==
-
1604年(慶長9年)、毛利輝元が萩城に入り、[[豊栄神社|毛利元就神霊]]を[[萩・春日神社]]内に祭ったのが創始だと考えられる(『山口県神社誌』「豊栄神社」)。1607年(慶長12年)3月、霊社を春日神社から城内三の郭に遷座(1933(昭和8)『山口市史』)。1759年(宝暦9年)、宝暦の改革の成功が祈願されている。
 
-
1762年(宝暦12年)、毛利重就が二の郭の土地神社を改造して、そこに合祀した。新たに毛利家の祖(土師氏の始祖)である'''天穂日命'''をも合祀した(1933(昭和8)『山口市史』)。
 
-
 
-
1770年(明和7年)9月1日から3日にかけて毛利元就200年祭を執行。新しい祠を造営した。このとき、'''毛利輝元'''('''宝心霊神''')、'''毛利秀就'''('''魂帰霊神''')を合祀する。[[洞春寺]]でも法要が行われている。この200年祭をきっかけに、安芸吉田の[[毛利家吉田郡山城跡墓地|毛利元就墓所]]の修復がなされた。
 
-
 
-
1824年(文政7年)、毛利元就神霊に'''仰徳大明神'''の神号が贈られたという(1933(昭和8)『山口市史』)。
 
-
 
-
1811年(文化8年)11月29日、白川家より'''毛利斉房'''に「'''斉房神霊'''」の神号が贈られ、勧請された。ただし、神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』154頁)。
 
-
 
-
江戸時代末期の1836年(天保7年)、奇しくも'''毛利斉熙'''、'''毛利斉元'''、'''毛利斉広'''の三藩主が同じ年に立て続けに死去した。毛利斉広にいたっては、藩主だったのはわずか20日間ほどであった。1849年(嘉永2年)4月5日、この三藩主に白川家より「'''斉熙神霊'''」、「'''斉元神霊'''」、「'''斉広神霊'''」の神号が贈られて祭られた。やはり神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』155頁)。
 
-
 
-
初代毛利元就の子、'''毛利隆元'''は嫡子であったが、謎の急死を遂げたため、正式な毛利家歴代には長らく数えられていなかった。しかし、名誉復帰と顕彰の流れが進み、墓地の新造がすでに行われていた。
 
-
これを受けて毛利家は白川家に神号を申請し、1853年(嘉永6年)4月24日、白川家より「'''感徳霊神'''」の神号が贈られた(岸本論文には「感応霊神」とある。)。斉房ら三代は、巻物に神号を書き加えることによって勧請としていたが、毛利家の願によって元就以下三代と同様に、特に霊神の神号と神璽が下された(『白川門人帳』156頁)。
 
-
 
-
1864年(元治1年)3月5日には尊皇攘夷の藩論確定の奉告を行なっている。1865年(慶応1年)2月、内乱沈静化に際し、藩内の動揺を収めるため、毛利敬親父子が4藩主とともに参拝した。
 
-
 
-
 
-
1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを[[洞春寺]]におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)
 
藩庁が萩城から山口に移ると、祖霊社も山口に遷座した。[[山口・多賀神社]]に仮殿を建てたらしい。1869年(明治2年)には毛利元就神霊を遷座(分霊?)して[[豊栄神社]]が創建されている。豊栄神社は1871年(明治4年)に現在地に社殿を造営したが、これにともない祖霊社も豊栄神社に遷座したようである。1873年(明治6年)ごろ、祖霊社は毛利家の東京移転により、毛利家東京邸に遷座した。豊栄神社に残された旧殿は毛利敬親を祀る中正社(のちの[[野田神社]])となった。
藩庁が萩城から山口に移ると、祖霊社も山口に遷座した。[[山口・多賀神社]]に仮殿を建てたらしい。1869年(明治2年)には毛利元就神霊を遷座(分霊?)して[[豊栄神社]]が創建されている。豊栄神社は1871年(明治4年)に現在地に社殿を造営したが、これにともない祖霊社も豊栄神社に遷座したようである。1873年(明治6年)ごろ、祖霊社は毛利家の東京移転により、毛利家東京邸に遷座した。豊栄神社に残された旧殿は毛利敬親を祀る中正社(のちの[[野田神社]])となった。

2022年2月21日 (月) 時点における版

毛利本家祖霊社旧殿 本殿(現・善光寺東京別院本堂)

毛利本家祖霊社(もうりほんけ・それいしゃ)は、山口県防府市多々良にある毛利本家祖霊社。祭神は、天穂日命毛利家歴代当主(毛利博物館ウェブサイト)。毛利家の移居にともない、萩、東京高輪、防府と遷った。なお別殿に毛利家功臣を合祀しているという(明治期。現状は不明)。西側に毛利元就木像および毛利元就以下歴代の画像を祀る毛利本家画像堂が付属する。

歴史

藩庁が萩城から山口に移ると、祖霊社も山口に遷座した。山口・多賀神社に仮殿を建てたらしい。1869年(明治2年)には毛利元就神霊を遷座(分霊?)して豊栄神社が創建されている。豊栄神社は1871年(明治4年)に現在地に社殿を造営したが、これにともない祖霊社も豊栄神社に遷座したようである。1873年(明治6年)ごろ、祖霊社は毛利家の東京移転により、毛利家東京邸に遷座した。豊栄神社に残された旧殿は毛利敬親を祀る中正社(のちの野田神社)となった。

のち明治20年代に毛利家が防府に邸を建設し、移転すると、祖霊社も遷座したらしい。山口の地域社会としての祭祀と、毛利家の祭祀の分離が行われたわけである。 1916年(大正5年)、現在の毛利家本邸が完成。 東京毛利邸の祖霊社旧殿は、1948年(昭和23年)に善光寺東京別院(宝光山影現寺)本堂として移築され、現存している。 1853年(嘉永6年)から1871年(明治4年)までの殉難者を別殿に合祀しているらしい(山口県公文書館所属目録)。


http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E7%A5%96%E9%9C%8A%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール