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法国寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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[[file:726070C3-57FD-45D0-BCC6-2054D3D167CC.jpeg|thumb|500px|旧法国寺本堂(歓喜光寺本堂)]]
'''法国寺'''(ほうこくじ)は[[京都]]にあった[[豊臣家]]ゆかりの[[時宗]]寺院。[[遊行派]]。[[歓喜光寺]]に合併し廃絶。旧称は'''豊国寺'''。山号は松圃山。
'''法国寺'''(ほうこくじ)は[[京都]]にあった[[豊臣家]]ゆかりの[[時宗]]寺院。[[遊行派]]。[[歓喜光寺]]に合併し廃絶。旧称は'''豊国寺'''。山号は松圃山。
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== 歴史 ==
 
現在の京都府京都市下京区の天満町・富永町・市之町のあたりにあった。
現在の京都府京都市下京区の天満町・富永町・市之町のあたりにあった。
[[遊行上人]]33世他阿満悟(1543-1612)が創建。[[豊臣秀吉]]が帰依。当初は豊国寺と称したが、豊臣家滅亡後は法国寺と改称した。
[[遊行上人]]33世他阿満悟(1543-1612)が創建。[[豊臣秀吉]]が帰依。当初は豊国寺と称したが、豊臣家滅亡後は法国寺と改称した。
1600年(慶長5年)頃、[[根来寺]]を逃れた玄宥が[[智積院]]をこの地に復興し、1615年(元和1年)に東山に移るまであった。
1600年(慶長5年)頃、[[根来寺]]を逃れた玄宥が[[智積院]]をこの地に復興し、1615年(元和1年)に東山に移るまであった。
1907年(明治40年)5月15日、[[歓喜光寺]]に併合された。(『日本歴史地名大系』)
1907年(明治40年)5月15日、[[歓喜光寺]]に併合された。(『日本歴史地名大系』)
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歴代住職は「其阿」を名乗った。
歴代住職は「其阿」を名乗った。
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[[category:京都府]]
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2021年8月7日 (土) 時点における版

旧法国寺本堂(歓喜光寺本堂)

法国寺(ほうこくじ)は京都にあった豊臣家ゆかりの時宗寺院。遊行派歓喜光寺に合併し廃絶。旧称は豊国寺。山号は松圃山。

現在の京都府京都市下京区の天満町・富永町・市之町のあたりにあった。 遊行上人33世他阿満悟(1543-1612)が創建。豊臣秀吉が帰依。当初は豊国寺と称したが、豊臣家滅亡後は法国寺と改称した。 1600年(慶長5年)頃、根来寺を逃れた玄宥が智積院をこの地に復興し、1615年(元和1年)に東山に移るまであった。 1907年(明治40年)5月15日、歓喜光寺に併合された。(『日本歴史地名大系』)

歴代住職は「其阿」を名乗った。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B3%95%E5%9B%BD%E5%AF%BA」より作成

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