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照高院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''照高院'''(しょうこういん)は、京都府京都市左京区外山町にあった[[天台宗]]の[[門跡寺院]]。廃絶。'''白川御殿'''、'''雪輪御所'''とも呼ばれた。 | '''照高院'''(しょうこういん)は、京都府京都市左京区外山町にあった[[天台宗]]の[[門跡寺院]]。廃絶。'''白川御殿'''、'''雪輪御所'''とも呼ばれた。 | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
元は現在地の[[妙法院]]の地にあり、[[豊臣秀吉]]の帰依を受け[[京都・方広寺|方広寺]]別当となった[[聖護院]]道澄が創建し、方広寺における住坊のような位置付けだったと思われる。方広寺鐘銘事件に連座して廃絶となるが、のち1619年(元和5年)、聖護院興意法親王が、廃絶が決定した伏見城の建物を移築し北白川の瓜生山下に再興し、聖護院の隠居寺とした。明治維新で廃絶。照高院宮は[[北白川宮]]に継承。 | 元は現在地の[[妙法院]]の地にあり、[[豊臣秀吉]]の帰依を受け[[京都・方広寺|方広寺]]別当となった[[聖護院]]道澄が創建し、方広寺における住坊のような位置付けだったと思われる。方広寺鐘銘事件に連座して廃絶となるが、のち1619年(元和5年)、聖護院興意法親王が、廃絶が決定した伏見城の建物を移築し北白川の瓜生山下に再興し、聖護院の隠居寺とした。明治維新で廃絶。照高院宮は[[北白川宮]]に継承。 | ||
- | 1770年(明和7年)、聖護院の兼務となり、寺領1000石となる。1868年(明治1年)、智成親王が門主となるが、同年、還俗して北白川宮を称した。1872年(明治5年)、[[能久親王]]が北白川宮を継ぐが、1875年(明治8年)、東京移住により堂舎は取り壊された。1902年(明治35年) | + | 1770年(明和7年)、聖護院の兼務となり、寺領1000石となる。1868年(明治1年)、智成親王が門主となるが、同年、還俗して北白川宮を称した。1872年(明治5年)、[[能久親王]]が北白川宮を継ぐが、1875年(明治8年)、東京移住により堂舎は取り壊された。1902年(明治35年)、跡地から北西550mの地に石碑が建てられた。(日本歴史地名大系) |
==歴代住職== | ==歴代住職== | ||
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*「諸門跡伝―円満院・聖護院・実相院・照高院」『華頂要略』143[http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail/1421581/156/2] | *「諸門跡伝―円満院・聖護院・実相院・照高院」『華頂要略』143[http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail/1421581/156/2] | ||
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2022年2月24日 (木) 時点における版
照高院(しょうこういん)は、京都府京都市左京区外山町にあった天台宗の門跡寺院。廃絶。白川御殿、雪輪御所とも呼ばれた。
歴史
元は現在地の妙法院の地にあり、豊臣秀吉の帰依を受け方広寺別当となった聖護院道澄が創建し、方広寺における住坊のような位置付けだったと思われる。方広寺鐘銘事件に連座して廃絶となるが、のち1619年(元和5年)、聖護院興意法親王が、廃絶が決定した伏見城の建物を移築し北白川の瓜生山下に再興し、聖護院の隠居寺とした。明治維新で廃絶。照高院宮は北白川宮に継承。 1770年(明和7年)、聖護院の兼務となり、寺領1000石となる。1868年(明治1年)、智成親王が門主となるが、同年、還俗して北白川宮を称した。1872年(明治5年)、能久親王が北白川宮を継ぐが、1875年(明治8年)、東京移住により堂舎は取り壊された。1902年(明治35年)、跡地から北西550mの地に石碑が建てられた。(日本歴史地名大系)
歴代住職
照高院宮を参照。
- 「諸門跡伝―円満院・聖護院・実相院・照高院」『華頂要略』143[1]