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百済王室
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2023年8月23日 (水) 時点における版
百済(くだら)の王室。前18年の建国と伝え、660年まで存続した。新羅王室、高句麗王室も参照。姓を「扶余」とし、後に国号「南扶余」とし、王都の地名にもなったように、満洲地方南部にいた「扶余」という民族・国家を起源と位置付けていたらしい。新羅、高句麗、百済の三国の中で百済は特に日本と密接な交流があった。中国式の壇廟祭祀を取り入れていたようだが、実態は不明。陵墓は日本の陵墓と関係している。仏教を取り入れ日本に初めて仏教を伝えた。
目次 |
首都
- 慰礼城:前18年~371年:ソウル近郊。所在地は不明。
- 漢山城:371年~475年:京畿道広州市付近。所在地は不明。
- 公州:475年~538年:忠清南道公州市。当時の名前は「熊津」。
- 扶余:538年~660年:忠清南道扶余郡。当時の名前は「泗〓」。(〓は「サンズイ+比」)
- 益山:全羅北道益山市。副都。
祭祀
- 東明廟:
- 仇台廟:
- 国母廟:
- 横岳:
- 南壇_(百済):
- 五帝:『冊府元亀』によれば毎年2・5・8・11月に五帝と天を祭った。
- 温祚廟:李氏朝鮮時代に創建。
- 崇烈殿:京畿道広州市南漢山城面山城里。李氏朝鮮が前王朝のための祭祀として建てた
- 百済王神社:日本大阪府枚方市。日本に移り住んだ百済王室の末裔が祖神を祀った。
陵墓
- 石村洞古墳群:ソウル近郊
- 可楽洞古墳群:ソウル近郊
- 陵山里古墳群:扶余近郊。近年、義慈王陵が築かれた。扶余王陵園。百済王陵苑。陵山里寺がある。
- 宋山里古墳群:公州近郊。武寧王陵が発見された。
- 益山双陵:全羅北道益山市。武王の陵墓という説がある。
- ボウ山陵墓群:中国洛陽近郊。
寺院
- 忠南・大通寺:忠清南道公州市班竹洞。百済初の本格的な寺院。元号寺。
- 扶余・定林寺:忠清南道扶余郡扶余邑東南里。
- 王興寺:忠清南道扶余郡窺岩面新里
- 陵山里寺:忠清南道扶余郡扶余邑陵山里。陵山里古墳群に付属し、王陵の陵寺だったとみられている。
- 漆岳寺:跡地不詳。
歴代国王
- 廟号はなかった。
- 諡号の初例は501年崩御の東城王。
- 陵墓が明らかになっているのは墓誌が発見された武寧王陵のみ。
代数 | 王名 | 生没年 | 在位年 | 諱 | 諡号 | 略歴 | 陵墓 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
東明王 | 生没年不詳 | 百済王室の遠祖。高句麗の東明聖王と同一人物とする説もあるが不詳。王都に東明廟が建てられた。 | 不詳 | ||||
1 | 温祚王 | ?-28 | 前18-28 | 初代国王。東明王の王子とも。前18年に慰礼城(現ソウル近郊)で即位。28年2月崩御。 | 不詳 | ||
2 | 多婁王 | ?-77 | 28-77 | 温祚王の第一王子。 | 不詳 | ||
3 | 己婁王 | ?-128 | 77-128 | 多婁王の第一王子。 | 不詳 | ||
4 | 蓋婁王 | ?-166 | 128-166 | 己婁王の王子。 | 不詳 | ||
5 | 肖古王 | ?-214 | 166-214 | 蓋婁王の王子。素古王ともいう。古事記に記載のある「照古王」に当てる説もある。 | 不詳 | ||
6 | 仇首王 | ?-234 | 214-234 | 肖古王の第一王子。貴須王ともいう。 | 不詳 | ||
7 | 沙伴王 | 生没年不詳 | 234-234 | 仇首王の第一王子。沙伊王、沙沸王ともいう。 | 不詳 | ||
8 | 古爾王 | ?-286 | 234-286 | 肖古王の舅に当たる。蓋婁王の第二王子。久爾君、古慕王ともいう。 | 不詳 | ||
9 | 責稽王 | ?-298 | 286-298 | 古爾王の王子。青稽王ともいう。 | 不詳 | ||
10 | 汾西王 | ?-304 | 298-304 | 責稽王の第一王子。 | 不詳 | ||
11 | 比流王 | ?-344 | 304-344 | 仇首王の第二王子。 | 不詳 | ||
12 | 契王 | ?-346 | 344-346 | 汾西王の第一王子。 | 不詳 | ||
13 | 近肖古王 | ?-375 | 346-375 | 扶余句 | 比流王の第二王子。実質的な初代国王という説がある。371年、漢山城に遷都。「近肖古王」は通称で「肖古王」が正確な名。速古王ともいう。古事記に記載のある「照古王」に当てる説もある。 | 不詳 | |
14 | 近仇首王 | ?-384 | 375-384 | 扶余須 | 近肖古王の第一王子。「近仇首王」は通称で正式には「仇首王」。貴首王ともいう。 | 不詳 | |
15 | 枕流王 | ?-385 | 384-385 | 近仇首王の第一王子。初めて百済に仏教を導入し、摩羅難陀を招き、漢山に寺院を開いたという。 | 不詳 | ||
16 | 辰斯王 | ?-392 | 385-392 | 近仇首王の第二王子、枕流王の弟。 | 不詳 | ||
17 | 阿〓王 | ?-405 | 392-405 | 辰斯王の姪。枕流王の第一王子。阿芳王、阿花王ともいう。 | 不詳 | ||
18 | 腆支王 | ?-420 | 405-420 | 扶余映 | 阿〓王の第一王子。諱は扶余腆とも。直支王、真支王ともいう。 | 不詳 | |
19 | 久爾辛王 | ?-427 | 420-427 | 腆支王の第一王子。南宋武帝は「鎮東将軍」から「鎮東大将軍」に昇格させた。 | 不詳 | ||
20 | 毘有王 | ?-455 | 427-455 | 扶余毘 | 久爾辛王の第一王子。 | 不詳 | |
21 | 蓋鹵王 | ?-475 | 455-475 | 扶余慶司 | 毘有王の第一王子。高句麗軍に攻められ処刑された。諱は扶余慶とも。近蓋婁王ともいう。 | 不詳 | |
22 | 文周王 | ?-477 | 475-477 | 扶余牟都 | 蓋鹵王の王子。475年、蓋鹵王の処刑後、熊津(公州)に逃れてその地を王都として即位した。諱は扶余都とも。〓洲王、文明王ともいう。 | 不詳 | |
23 | 三斤王 | ?-479 | 477-479 | 文周王の第一王子。文斤王、三乞王、壬乞王ともいう。 | 不詳 | ||
24 | 東城王 | ?-501 | 479-501 | 扶余牟大 | 東城王 | 三斤王の姪か。臣下の大臣に暗殺された。初めて諡号を贈られた。諱は扶余摩牟とも。 | 不詳 |
25 | 武寧王 | 462-523 | 501-523 | 扶余斯摩 | 武寧王 | 東城王の第二王子。日本書紀によると、日本の加唐島で生まれたとされる。「武寧王陵墓誌」が発見されている。諱は扶余斯痲または扶余隆とも。斯痲王、嶋王、虎寧王ともいう。 | 武寧王陵 |
26 | 聖王 | ?-554 | 523-554 | 扶余明〓 | 聖王 | 武寧王の王子。538年、泗〓(扶余)に遷都。国号を「南扶余」とした。仏教を重視し、527年、梁の皇帝の命で大通寺を建てた。538年もしくは552年に日本に仏教を伝えた。明王、聖明王ともいう。日本では稲佐神社の祭神となっている。日本の大内氏の祖の琳聖太子は聖明王の王子とされる。 | 不詳 |
27 | 威徳王 | ?-598 | 554-598 | 扶余昌 | 威徳王 | 聖王の第一王子。陵山里寺で供養。昌王ともいう。 | 不詳 |
28 | 恵王 | ?-599 | 598-599 | 扶余季 | 恵王 | 聖王の王子とも、威徳王の王子ともいう。献王ともいう。 | 不詳 |
29 | 法王 | ?-600 | 599-600 | 扶余宣 | 法王 | 恵王の第一王子とも威徳王の王子ともいう。仏教を重視し、王興寺創建を発願。漆岳寺で祈雨祈願。諱は孝順とも。 | 不詳 |
30 | 武王 | ?-641 | 600-641 | 扶余璋 | 武王 | 法王の王子か。王興寺、益山・弥勒寺を創建。諱は武康または献丙とも。虎王、武康王、武広王ともいう。 | 不詳 |
31 | 義慈王 | 599-660 | 641-660 | 扶余義慈 | 武王の第一王子。洛陽のボウ山に埋葬された。近年、扶余近郊の陵山里古墳群に接して陵墓が築かれた。 | ボウ山、義慈王陵 |