ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
等持寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年8月9日 (月)
(?歴史) |
|||
(間の2版分が非表示) | |||
1行: | 1行: | ||
- | '''等持寺''' | + | '''等持寺'''(とうじじ)は、京都府京都市中京区杉屋町・等持寺町付近にあった[[足利家]]ゆかりの[[臨済宗]]寺院。[[足利尊氏]]の館を寺院化したもの。[[十刹]]第1位。鎮守だった[[御所八幡宮]]が現存する。幕府が置かれた[[三条御所]]も近くにあった。 |
+ | ==歴史== | ||
+ | 足利尊氏が創建(1369年(正平24年/応安2年)「仏観禅師行状」)。 | ||
+ | 年代ははっきりしないが、1339年(延元4年/暦応2年)7月6日に足利直義が本尊造立所として[[丹波国分寺]]地頭職を等持寺長老に寄進した記録がある。 | ||
+ | もともとこの地には[[清浄華院]]があったが土御門室町に移転させた。 | ||
+ | |||
+ | 1347年(正平2年/貞和3年)2月18日、足利尊氏が変異祈祷を[[青蓮院]]に頼んだ時 | ||
+ | 門葉記の記述に「等持寺者私持仏堂之体也」とあり、邸宅の持仏堂のように | ||
+ | 書かれているが、他の史料から尊氏の館がそのまま寺院だったと考えられている。 | ||
+ | |||
+ | 1365年(正平20年/貞治4年)、将軍足利義詮は母の赤橋登子(登真院殿)の死にあたり、 | ||
+ | 碧潭周皎を等持寺に招いて百日読経をさせた。 | ||
+ | |||
+ | 1377年(天授3年/永和3年)9月8日、[[足利義満]]が[[十刹]]の首位に定めた(花営三代記)。 | ||
+ | 足利家歴代の供養が行われた。 | ||
+ | しかし、1382年(永徳2年)に[[相国寺]]が創建されるとその役割を次第に取って | ||
+ | 変わられた。 | ||
+ | |||
+ | 1381年(弘和1年/永徳1年)10月7日、足利義満、等持寺で五山十刹住持の任期等規式を定める | ||
+ | 1386年(元中3年/至徳3年)7月、改めて京都十刹の首位に定められた。 | ||
+ | |||
+ | 1419年(応永26年)、[[北山殿]]から懺法堂を等持寺に移築して宗鏡堂とする。 | ||
+ | |||
+ | 1446年(文安3年)1月16日焼失(師郷記)。 | ||
+ | 1467年(応仁1年)からの応仁の乱で焼失し、廃寺同然となり、のち等持院に合併となった。 | ||
+ | |||
+ | 応仁の乱の後に[[林光院]]が等持寺に移転したが、元亀年間に相国寺に移転した。 | ||
+ | 紙本淡彩等持寺絵図が等持院に伝わる。 | ||
== 組織 == | == 組織 == | ||
===住職=== | ===住職=== | ||
+ | |||
+ | *古先印元(1295-1374)<>:1338年(延元3年/暦応1年)等持寺開山。 | ||
+ | *慈永()<>:1355年(正平10年/文和4年)在職。 | ||
+ | *中巌円月(1300-1375)<>:1363年(正平18年/貞治2年)等持寺住職。 | ||
+ | *春屋妙葩(1311-1388)<>:1357年(正平12年/延文2年)等持寺住職。 | ||
+ | *義堂周信(1325-1388)<>:1380年(天授6年/康暦2年)9月等持寺。 | ||
+ | *空谷明応(1328-1407)<>:義堂周信の推薦で等持寺に入る。 | ||
+ | *絶海中津(1336-1405)<>:1385年(元中2年/至徳2年)12月、等持寺住職。1391年(元中8年/明徳2年)7月等持院に転住。 | ||
+ | *観中中諦(1342-1406)<>: | ||
+ | *大岳周崇(1345-1423)<>: | ||
+ | *鄂隠慧〓(1357-1425)<>:応永年間、等持寺。 | ||
+ | *古幢周勝(1370-1433)<>: | ||
+ | *瑞渓周鳳(1391-1473)<>:1437年(永享9年)8月、等持寺住職。 | ||
+ | *原古志稽(1401-1475)<>: | ||
+ | *綿谷周〓(1405-1472)<>:1464年(寛正5年)等持寺住職。翌年まで。 | ||
+ | *横川景三(1429-1493)<>:1478年(文明10年)2月、等持寺公帖。3月入寺。 | ||
+ | *桃源瑞仙(1430-1489)<>:1481年(文明13年)4月、等持寺住職。1486年(文明18年)8月相国寺住職。 | ||
+ | *景徐周麟(1440-1518)<>:1487年(長享1年)等持寺に入る。日記『等持寺日件』。 | ||
+ | *宗山等貴(1464-1526)<>: | ||
+ | |||
+ | |||
+ | *祖曇 | ||
+ | *黙庵 | ||
+ | |||
+ | |||
「等持寺歴代抄」[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921076/213] | 「等持寺歴代抄」[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921076/213] | ||
+ | |||
+ | ==資料== | ||
+ | *等持院御八講記(続群書類従) | ||
+ | *国際文化財株式会社2012『平安京左京三条四坊七町跡・等持寺跡:集合住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』 | ||
+ | |||
+ | *魚澄惣五郎1931「京都等持寺趾」『古社寺の研究』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921019/234] | ||
+ | *今枝愛真1962「禅宗と足利初期政権:等持寺の成立をめぐって」『日本歴史』171 | ||
+ | *川上貢1967「等持寺と尊氏の初期邸宅」『日本中世住宅の研究』 | ||
+ | *細川武稔1998「空間から見た室町幕府:足利氏の邸宅と寺社」[https://doi.org/10.24471/shigaku.107.12_2083] | ||
+ | *細川武稔2010「足利氏の邸宅と菩提寺:等持寺・相国寺を中心に」『京都の寺社と室町幕府』 | ||
+ | *冨島義幸2004「等持寺仏殿と相国寺八講堂:顕密仏教空間としての評価について」『仏教芸術』273 | ||
+ | *大澤伸啓2008「中世武士の館庭園へ禅宗寺院庭園が及ぼした影響」[https://doi.org/10.5982/jgarden.2008.35] | ||
+ | *髙鳥廉2019「等持寺住持職の歴史的展開」『仏教史学研究』62(1) | ||
+ | *関西剛康2021「足利尊氏と足利直義における庭園利用に関する研究」[https://doi.org/10.5632/jila.84.453] | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
[[category:京都府]] | [[category:京都府]] |
2021年8月9日 (月) 時点における最新版
等持寺(とうじじ)は、京都府京都市中京区杉屋町・等持寺町付近にあった足利家ゆかりの臨済宗寺院。足利尊氏の館を寺院化したもの。十刹第1位。鎮守だった御所八幡宮が現存する。幕府が置かれた三条御所も近くにあった。
目次 |
歴史
足利尊氏が創建(1369年(正平24年/応安2年)「仏観禅師行状」)。 年代ははっきりしないが、1339年(延元4年/暦応2年)7月6日に足利直義が本尊造立所として丹波国分寺地頭職を等持寺長老に寄進した記録がある。 もともとこの地には清浄華院があったが土御門室町に移転させた。
1347年(正平2年/貞和3年)2月18日、足利尊氏が変異祈祷を青蓮院に頼んだ時 門葉記の記述に「等持寺者私持仏堂之体也」とあり、邸宅の持仏堂のように 書かれているが、他の史料から尊氏の館がそのまま寺院だったと考えられている。
1365年(正平20年/貞治4年)、将軍足利義詮は母の赤橋登子(登真院殿)の死にあたり、 碧潭周皎を等持寺に招いて百日読経をさせた。
1377年(天授3年/永和3年)9月8日、足利義満が十刹の首位に定めた(花営三代記)。 足利家歴代の供養が行われた。 しかし、1382年(永徳2年)に相国寺が創建されるとその役割を次第に取って 変わられた。
1381年(弘和1年/永徳1年)10月7日、足利義満、等持寺で五山十刹住持の任期等規式を定める 1386年(元中3年/至徳3年)7月、改めて京都十刹の首位に定められた。
1419年(応永26年)、北山殿から懺法堂を等持寺に移築して宗鏡堂とする。
1446年(文安3年)1月16日焼失(師郷記)。 1467年(応仁1年)からの応仁の乱で焼失し、廃寺同然となり、のち等持院に合併となった。
応仁の乱の後に林光院が等持寺に移転したが、元亀年間に相国寺に移転した。 紙本淡彩等持寺絵図が等持院に伝わる。
組織
住職
- 古先印元(1295-1374)<>:1338年(延元3年/暦応1年)等持寺開山。
- 慈永()<>:1355年(正平10年/文和4年)在職。
- 中巌円月(1300-1375)<>:1363年(正平18年/貞治2年)等持寺住職。
- 春屋妙葩(1311-1388)<>:1357年(正平12年/延文2年)等持寺住職。
- 義堂周信(1325-1388)<>:1380年(天授6年/康暦2年)9月等持寺。
- 空谷明応(1328-1407)<>:義堂周信の推薦で等持寺に入る。
- 絶海中津(1336-1405)<>:1385年(元中2年/至徳2年)12月、等持寺住職。1391年(元中8年/明徳2年)7月等持院に転住。
- 観中中諦(1342-1406)<>:
- 大岳周崇(1345-1423)<>:
- 鄂隠慧〓(1357-1425)<>:応永年間、等持寺。
- 古幢周勝(1370-1433)<>:
- 瑞渓周鳳(1391-1473)<>:1437年(永享9年)8月、等持寺住職。
- 原古志稽(1401-1475)<>:
- 綿谷周〓(1405-1472)<>:1464年(寛正5年)等持寺住職。翌年まで。
- 横川景三(1429-1493)<>:1478年(文明10年)2月、等持寺公帖。3月入寺。
- 桃源瑞仙(1430-1489)<>:1481年(文明13年)4月、等持寺住職。1486年(文明18年)8月相国寺住職。
- 景徐周麟(1440-1518)<>:1487年(長享1年)等持寺に入る。日記『等持寺日件』。
- 宗山等貴(1464-1526)<>:
- 祖曇
- 黙庵
「等持寺歴代抄」[1]
資料
- 等持院御八講記(続群書類従)
- 国際文化財株式会社2012『平安京左京三条四坊七町跡・等持寺跡:集合住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』
- 魚澄惣五郎1931「京都等持寺趾」『古社寺の研究』[2]
- 今枝愛真1962「禅宗と足利初期政権:等持寺の成立をめぐって」『日本歴史』171
- 川上貢1967「等持寺と尊氏の初期邸宅」『日本中世住宅の研究』
- 細川武稔1998「空間から見た室町幕府:足利氏の邸宅と寺社」[3]
- 細川武稔2010「足利氏の邸宅と菩提寺:等持寺・相国寺を中心に」『京都の寺社と室町幕府』
- 冨島義幸2004「等持寺仏殿と相国寺八講堂:顕密仏教空間としての評価について」『仏教芸術』273
- 大澤伸啓2008「中世武士の館庭園へ禅宗寺院庭園が及ぼした影響」[4]
- 髙鳥廉2019「等持寺住持職の歴史的展開」『仏教史学研究』62(1)
- 関西剛康2021「足利尊氏と足利直義における庭園利用に関する研究」[5]