ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

西行旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
2行: 2行:
== 略歴 ==
== 略歴 ==
-
佐藤康清の子。[[藤原秀郷]]の末裔という。[[鳥羽上皇]]や徳大寺実能に仕えるなどしたが、1140年(保延6年)遁世して出家。理由には信心・無常感・悲恋など様々な説がある。嵯峨や東山に庵を設け、[[長楽寺]]・[[双林寺]]などでの歌会に参加。また[[鞍馬寺]]で修行したという。能因を慕って陸奥国や出羽国を探訪。帰京して[[高野山]]に1180年(治承4年)まで転居。この時代、吉野山にもたびたび訪れ、大峰山修行も行ったという。また四天王寺、熊野三山、厳島神社、播磨・円教寺にも参詣した。1167年(仁安2年)頃、白峰寺を参詣し、崇徳天皇の霊を慰め、善通寺に庵を結んだ。1172年(承安2年)平清盛の千僧供養に出仕。1180年(治承4年)、伊勢国二見浦の庵に移り、伊勢神宮の神職の荒木田満良らと交流した。1186年(文治2年)、東大寺大勧進の重源の依頼で大仏再建の勧進のため平泉の藤原秀衡を訪問。その途次、鎌倉で源頼朝に流鏑馬を披露。1187年(文治3年)、帰京して嵯峨に住む。1189年(文治5年)、河内弘川寺に転居。1190年(建久1年)2月16日死去。73歳。同寺内に墓所を設けた。歌道と仏道の両面から評価され、伝説化していった。全国に西行伝説がある。(『国史大辞典』『日本大百科全書』)
+
佐藤康清の子。[[藤原秀郷]]の末裔という。[[鳥羽上皇]]や徳大寺実能に仕えるなどしたが、1140年(保延6年)遁世して出家。理由には信心・無常感・悲恋など様々な説がある。嵯峨や東山に庵を設け、[[長楽寺]]・[[双林寺]]などでの歌会に参加。また[[鞍馬寺]]で修行したという。能因を慕って陸奥国や出羽国を探訪。帰京して[[高野山]]に1180年(治承4年)まで転居。この時代、吉野山にもたびたび訪れ、大峰山修行も行ったという。また四天王寺、熊野三山、厳島神社、播磨・円教寺にも参詣した。1167年(仁安2年)頃、白峰寺を参詣し、崇徳天皇の霊を慰め、善通寺に庵を結んだ。1172年(承安2年)平清盛の千僧供養に出仕。1180年(治承4年)、伊勢国二見浦の庵に移り、[[伊勢神宮]]神職の荒木田満良らと交流した。1186年(文治2年)、東大寺大勧進の[[重源]]の依頼で大仏再建の勧進のため平泉の藤原秀衡を訪問。その途次、鎌倉で[[源頼朝]]に流鏑馬を披露。1187年(文治3年)、帰京して嵯峨に住む。1189年(文治5年)、河内弘川寺に転居。1190年(建久1年)2月16日死去。73歳。同寺内に墓所を設けた。歌道と仏道の両面から評価され、伝説化していった。全国に西行伝説がある。(『国史大辞典』『日本大百科全書』)
== 一覧 ==
== 一覧 ==
-
*嵯峨の庵
+
*嵯峨の庵:京都府京都市右京区嵯峨。不詳。
*[[京都・西行庵]]:京都府京都市東山区円山町。
*[[京都・西行庵]]:京都府京都市東山区円山町。
-
*[[鞍馬寺]]
+
*[[鞍馬寺]]:京都府京都市左京区鞍馬本町。
*陸奥:
*陸奥:
*出羽:
*出羽:
-
*[[高野山]]
+
*[[高野山]]:和歌山県伊都郡高野町。
-
*[[蓮華乗院]]
+
*[[蓮華乗院]]:和歌山県伊都郡高野町。
*[[吉野・西行庵]]:奈良県吉野郡吉野町吉野山。
*[[吉野・西行庵]]:奈良県吉野郡吉野町吉野山。
-
*[[大峰山]]
+
*[[大峰山]]
-
*[[四天王寺]]
+
*[[四天王寺]]
-
*[[熊野三山]]
+
*[[熊野三山]]
-
*[[厳島神社]]
+
*[[厳島神社]]
-
*[[播磨・円教寺]]
+
*[[播磨・円教寺]]
*[[白峰寺]]:香川県坂出市青海町。
*[[白峰寺]]:香川県坂出市青海町。
-
*[[善通寺]]
+
*[[善通寺]]
*[[伊勢・安養寺]]:三重県伊勢市二見町溝口。廃絶。
*[[伊勢・安養寺]]:三重県伊勢市二見町溝口。廃絶。
-
*[[鎌倉]]
+
*[[鎌倉]]
-
*[[平泉]]
+
*[[平泉]]
*[[弘川寺]]:大阪府南河内郡河南町弘川。
*[[弘川寺]]:大阪府南河内郡河南町弘川。
*[[西行墓]]:大阪府南河内郡河南町弘川。弘川寺内。
*[[西行墓]]:大阪府南河内郡河南町弘川。弘川寺内。
[[Category:人物旧跡]]
[[Category:人物旧跡]]

2019年3月25日 (月) 時点における版

西行(さいぎょう)(1118-1190)は、平安時代末期の真言宗僧侶歌人として著名。俗名は佐藤義清。 円位。大宝坊、大本坊と号す。

略歴

佐藤康清の子。藤原秀郷の末裔という。鳥羽上皇や徳大寺実能に仕えるなどしたが、1140年(保延6年)遁世して出家。理由には信心・無常感・悲恋など様々な説がある。嵯峨や東山に庵を設け、長楽寺双林寺などでの歌会に参加。また鞍馬寺で修行したという。能因を慕って陸奥国や出羽国を探訪。帰京して高野山に1180年(治承4年)まで転居。この時代、吉野山にもたびたび訪れ、大峰山修行も行ったという。また四天王寺、熊野三山、厳島神社、播磨・円教寺にも参詣した。1167年(仁安2年)頃、白峰寺を参詣し、崇徳天皇の霊を慰め、善通寺に庵を結んだ。1172年(承安2年)平清盛の千僧供養に出仕。1180年(治承4年)、伊勢国二見浦の庵に移り、伊勢神宮神職の荒木田満良らと交流した。1186年(文治2年)、東大寺大勧進の重源の依頼で大仏再建の勧進のため平泉の藤原秀衡を訪問。その途次、鎌倉で源頼朝に流鏑馬を披露。1187年(文治3年)、帰京して嵯峨に住む。1189年(文治5年)、河内弘川寺に転居。1190年(建久1年)2月16日死去。73歳。同寺内に墓所を設けた。歌道と仏道の両面から評価され、伝説化していった。全国に西行伝説がある。(『国史大辞典』『日本大百科全書』)

一覧

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール