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赤間神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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赤間神宮(あかま・じんぐう)は、山口県下関市阿弥陀寺町(長門国豊浦郡)にある安徳天皇を祀る霊社。安徳帝の菩提寺として建てられた長門・阿弥陀寺の御影堂が起源で、明治維新後に神社となった。ただし神社化以前から「安徳天皇の社」(筑紫紀行図志)と呼ばれることもあった。御影堂の跡地が安徳天皇陵となっている。官幣大社神社本庁別表神社

目次

歴史

  • 1185年3月24日:壇ノ浦の戦いで二位尼に抱かれて入水崩御。8歳。
  • 1191年閏12月28日:朝廷、後白河法皇の病気平癒祈願のため、長門国に命じて御堂を建てて弔った。(玉海)
  • 1587年3月1日:豊臣秀吉、阿弥陀寺で安徳天皇御影などを見る(陰徳太平記)
  • 1783年:『西遊雑記』に「御廟には帝の木像を安置し左右の障子には二位の尼内侍および平家の一族の像を描く」とある。
  • 明治初年:安徳天皇社と改称
  • 1875年10月7日:赤間宮と改称し、官幣中社に列格。この日を例祭日とする。
  • 1876年:社殿造営開始
  • 1886年:造営竣工[1]
  • 1889年:御影堂の跡地に安徳天皇陵を築造
  • 1933年:境内整備始める
  • 1937年:整備竣工[2]
  • 1940年8月1日:赤間神宮と改称し、官幣大社に昇格。白峰神宮と同時。(内務省告示[3]
  • 1945年7月:空襲で焼失
  • 1950年:本殿と祝詞殿を再建。
  • 1958年:水天門を建立。

境内

  • 本社:
  • 鎮守八幡宮:
  • 紅石稲荷神社:
  • 安徳天皇陵
  • 平家塚:
  • 水天供養塔:
  • 七盛社:
  • 芳一堂:
  • 大連神社
  • 大東塾十四烈士之碑:
  • 祖霊殿:
  • 神社:
  • 神社:
  • 御旅所:山口県下関市伊崎町。小門御旅所。安徳天皇の遺体が流れ着いた場所だという。

組織

宮司

  • 白石正一郎()<>:
  • 宍道恒樹?()<>:
  • 南野一郎(-1894)<-1894>:1894年(明治27年)9月25日死去(官報)。
  • 諫早生二()<1894->:1894年(明治27年)10月4日、赤間宮宮司。12月正七位。
  • 引田利亮(1820-1901)<>:山口藩士。貫前神社宮司。
  • 小笠原長弘(1829-1906)<>:『ホツマツタエ』を筆録。
  • 落合光治郎()<1902->:1902年(明治35年)8月15日、赤間宮宮司。
  • 中島正国(1896-1954)<>:
  • 水野久直(1907-)<>:大連神社宮司を経て就任。
  • 水野直房(1934-)<-2014>:久直の長男。
  • 水野大直()<2014->:

資料

  • 松野武左衛門 1882『赤間宮宝物一覧』[4]
  • 1895「赤間宮の記」[5]:平家の名前
  • 鳴瀬嘉貞1910『壇浦史蹟』「赤間宮」[6]
  • 御影堂の平面図[7]
  • 『古事類苑』[8]
  • 『下関二千年史』「鎮守八幡宮」[9]
  • 『下関二千年史』「赤間宮」[10]
    • 「阿弥陀寺伝記」[11]
  • 内山薫1978『山口県郷土史上巻』「阿弥陀寺御陵と赤間宮」[12]
  • 藤井正樹1995「研究ノート赤間宮宮司引田亮のこと」[13]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%B5%A4%E9%96%93%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

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