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遣迎院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''遣迎院'''(けんごういん)は、京都東山にあった[[天台宗]]系・[[浄土宗]]系の寺院。[[浄土宗西山派]]開祖[[証空]]の没地であり、墓所。円密戒浄([[天台]]・[[真言]]・[[戒律]]・[[浄土]])の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派本山流の拠点だった。宮中[[御黒戸]]の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。1583年(天正11年)[[鷹峰・遣迎院]]と[[南遣迎院]]に分かれている。
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'''遣迎院'''(けんごういん)は、京都東山にあった[[天台宗]]系・[[浄土宗]]系の寺院。[[浄土宗西山派]]開祖[[証空]]の没地であり、墓所。円密戒浄([[天台]]・[[真言]]・[[戒律]]・[[浄土]])の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派本山流の拠点だった。宮中[[御黒戸]]の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。1583年(天正11年)[[鷹峰・遣迎院]]と[[南遣迎院]]に分かれている。'''白河遣迎院'''。'''白川遣迎院'''。
==歴史==
==歴史==
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寺伝によると、九条道家が証空に帰依し、1201年(建仁1年)に創建。伏見大路の東、三ノ橋南にあったという。
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寺伝によると、九条道家が[[証空]]に帰依し、1201年(建仁1年)に創建。伏見大路の東、三ノ橋南にあったという。1247年(宝治1年)11月26日、証空は遣迎院で死去。浄土宗西山派本山流の拠点の一つとなり、三鈷寺の末寺だった。
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1575年(天正3年)[[定額寺]]となる(山城名跡巡行志)。
1575年(天正3年)[[定額寺]]となる(山城名跡巡行志)。
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1583年(天正11年)[[鷹峰・遣迎院]]と[[南遣迎院]]に分かれている。
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1583年(天正11年)[[鷹峰・遣迎院|京極遣迎院]]と[[南遣迎院]]に分かれている。
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(日本歴史地名大系)
==資料==
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2019年2月19日 (火) 時点における版

遣迎院(けんごういん)は、京都東山にあった天台宗系・浄土宗系の寺院。浄土宗西山派開祖証空の没地であり、墓所。円密戒浄(天台真言戒律浄土)の四宗兼学の寺院として発展。浄土宗西山派本山流の拠点だった。宮中御黒戸の祭祀を司った「御黒戸四箇院」の一つ。1583年(天正11年)鷹峰・遣迎院南遣迎院に分かれている。白河遣迎院白川遣迎院

目次

歴史

寺伝によると、九条道家が証空に帰依し、1201年(建仁1年)に創建。伏見大路の東、三ノ橋南にあったという。1247年(宝治1年)11月26日、証空は遣迎院で死去。浄土宗西山派本山流の拠点の一つとなり、三鈷寺の末寺だった。

1575年(天正3年)定額寺となる(山城名跡巡行志)。 1583年(天正11年)京極遣迎院南遣迎院に分かれている。 (日本歴史地名大系)

資料

古典籍

  • 「遣迎院」『古事類苑』[1]

文献

  • 広川尭敏1969「遣迎院本仮名書観門義について」『印度學佛教學研究』17-2[2]
  • 青木淳1995「快慶作遣迎院阿弥陀如来像の結縁交名―像内納入品資料に見る中世信仰者の「結衆」とその構図」『仏教史学研究』38-2
  • 鈴木暎一2016「徳川光圀と遣迎院応空」『茨城県史研究』100
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%81%A3%E8%BF%8E%E9%99%A2」より作成

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