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阿蘇神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*阿蘇惟時(?-1353)<1333->:1333年(元弘3年/正慶2年)大宮司となる。まもなく譲った阿蘇惟直が1336年(延元1年/建武3年)に戦死したため、大宮司に復職。 | *阿蘇惟時(?-1353)<1333->:1333年(元弘3年/正慶2年)大宮司となる。まもなく譲った阿蘇惟直が1336年(延元1年/建武3年)に戦死したため、大宮司に復職。 | ||
- | *阿蘇惟直(?-1336)<> | + | *阿蘇惟直(?-1336)<>:阿蘇惟時の子。[[南朝]]の武将。[[護良親王]]に従う。多々良浜で[[足利尊氏]]に討たれた。 |
*坂梨孫熊丸()<>:北朝の大宮司。 | *坂梨孫熊丸()<>:北朝の大宮司。 | ||
- | *阿蘇惟澄(?-1364)<1361->:阿蘇惟時の娘婿。南朝の武将。1333年(元弘3年/正慶2年) | + | *阿蘇惟澄(?-1364)<1361->:阿蘇惟時の娘婿。南朝の武将。1333年(元弘3年/正慶2年)、護良親王に従い、ついで征西将軍宮[[懐良親王]]に従う。1361年(正平16年/康安1年)大宮司となる。 |
*阿蘇惟武(?-1377)<>:阿蘇惟澄の次男。南朝の武将。1365年(正平20年/貞治4年)、南朝の大宮司となり、北朝の大宮司の兄と対立。戦死。 | *阿蘇惟武(?-1377)<>:阿蘇惟澄の次男。南朝の武将。1365年(正平20年/貞治4年)、南朝の大宮司となり、北朝の大宮司の兄と対立。戦死。 | ||
*阿蘇惟政(生没年不詳)<1377->:阿蘇惟武の子。南朝の武将。従兄弟の阿蘇惟郷と大宮司職を争う。1392年(明徳3年)の南北朝の合併で翌年、北朝に下る。 | *阿蘇惟政(生没年不詳)<1377->:阿蘇惟武の子。南朝の武将。従兄弟の阿蘇惟郷と大宮司職を争う。1392年(明徳3年)の南北朝の合併で翌年、北朝に下る。 | ||
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*阿蘇惟憲()<>: | *阿蘇惟憲()<>: | ||
*阿蘇惟長(?-1537)<>:1505年(永正2年)菊池政隆を当主から追放し菊池家を継ぎ菊池武経と名乗る。 | *阿蘇惟長(?-1537)<>:1505年(永正2年)菊池政隆を当主から追放し菊池家を継ぎ菊池武経と名乗る。 | ||
- | *阿蘇惟豊(1493-1559)<-1513>:兄の阿蘇惟長から大宮司を継承するが、1513年(永正10年)惟長に追放される。日向に逃れ甲斐親宣の援助を得て1517年(永正14年)大宮司に復帰。 | + | *阿蘇惟豊(1493-1559)<-1513>:兄の阿蘇惟長から大宮司を継承するが、1513年(永正10年)惟長に追放される。日向に逃れ甲斐親宣の援助を得て1517年(永正14年)大宮司に復帰。[[阿蘇惟豊墓]]。 |
*阿蘇惟前(生没年不詳)<1513->:阿蘇惟長の子。戦国時代の武将。1513年(永正10年)叔父の阿蘇惟豊を追放するが、1514年(永正11年)に反撃にあって薩摩に逃れた。 | *阿蘇惟前(生没年不詳)<1513->:阿蘇惟長の子。戦国時代の武将。1513年(永正10年)叔父の阿蘇惟豊を追放するが、1514年(永正11年)に反撃にあって薩摩に逃れた。 | ||
*阿蘇惟将(?-1583)<>:阿蘇惟豊の子。戦国時代の武将。 | *阿蘇惟将(?-1583)<>:阿蘇惟豊の子。戦国時代の武将。 |
2018年11月17日 (土) 時点における版
阿蘇神社 あそ じんじゃ | |
概要 | 阿蘇山の神。 |
奉斎 | 健磐龍命 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 熊本県阿蘇市一の宮町宮地宮園3083 |
所在地(旧国郡) | 肥後国阿蘇郡 |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 式内社・名神大社・正二位勲五等・肥後国一宮・朱印地拝領神社・官幣大社・別表神社 |
関連記事 | 阿蘇信仰・阿蘇神社旧跡 |
目次 |
概要
阿蘇神社(あそ・じんじゃ)は、熊本県阿蘇市にある阿蘇山の神を祀る神社。神宮寺は西巌殿寺。山上に阿蘇山上神社と西巌殿寺奥之院がある。阿蘇山も参照。
歴史
境内
組織
大宮司
- 速瓶玉命
- 稚人君命
- 成兼丸
- 阿蘇成輔
- 阿蘇高正
- 阿蘇高軌
- 阿蘇友則
- 阿蘇友兼
- 阿蘇惟兼
- 阿蘇惟風
- 阿蘇利名
- 阿蘇頼高
- 阿蘇成時
- 阿蘇則高
- 阿蘇惟教
- 阿蘇惟文
- 阿蘇惟氏
- 阿蘇忠行
- 阿蘇惟峰
- 阿蘇友助
- 阿蘇惟顕
- 阿蘇惟明
- 阿蘇惟保
- 阿蘇遠明
- 阿蘇宗延
- 阿蘇惟情
- 阿蘇友利
- 阿蘇友成
- 阿蘇友仲
- 阿蘇頼元
- 阿蘇惟助
- 阿蘇惟親
- 阿蘇惟信
- 阿蘇惟通
- 阿蘇惟満
- 阿蘇惟経
- 阿蘇惟遠
- 阿蘇惟雅
- 阿蘇惟綱
- 阿蘇惟員
- 阿蘇惟行
- 阿蘇則真
- 阿蘇是員
- 阿蘇友孝
- 阿蘇友実
- 阿蘇友房
- 阿蘇惟俊
- 阿蘇惟宣
- 阿蘇資長
- 阿蘇惟泰
- 阿蘇惟次
- 阿蘇惟義
- 阿蘇惟景
- 阿蘇惟資
- 阿蘇惟国
- 阿蘇惟時(?-1353)<1333->:1333年(元弘3年/正慶2年)大宮司となる。まもなく譲った阿蘇惟直が1336年(延元1年/建武3年)に戦死したため、大宮司に復職。
- 阿蘇惟直(?-1336)<>:阿蘇惟時の子。南朝の武将。護良親王に従う。多々良浜で足利尊氏に討たれた。
- 坂梨孫熊丸()<>:北朝の大宮司。
- 阿蘇惟澄(?-1364)<1361->:阿蘇惟時の娘婿。南朝の武将。1333年(元弘3年/正慶2年)、護良親王に従い、ついで征西将軍宮懐良親王に従う。1361年(正平16年/康安1年)大宮司となる。
- 阿蘇惟武(?-1377)<>:阿蘇惟澄の次男。南朝の武将。1365年(正平20年/貞治4年)、南朝の大宮司となり、北朝の大宮司の兄と対立。戦死。
- 阿蘇惟政(生没年不詳)<1377->:阿蘇惟武の子。南朝の武将。従兄弟の阿蘇惟郷と大宮司職を争う。1392年(明徳3年)の南北朝の合併で翌年、北朝に下る。
- 阿蘇惟村(?-1406)<>:阿蘇惟澄の長男。祖父阿蘇惟時の養子となる。北朝に着く。1351年(正平6年/観応2年)、祖父の阿蘇惟時から継承。
- 阿蘇惟兼()<>:阿蘇惟政の子。
- 阿蘇惟歳()<>:阿蘇惟兼の子。大宮司継承をめぐる2家系の訴訟の結果、阿蘇惟忠の養子となる。
- 阿蘇惟家()<>:阿蘇惟歳の子。
- 阿蘇惟郷(?-1470)<>:阿蘇惟村の子。北朝系。従兄弟の阿蘇惟政、その子の阿蘇惟兼と大宮司職を争う。
- 阿蘇惟忠(1415-1485)<>:阿蘇惟郷の子。北朝系。南朝系の惟歳を養子に迎え、対立を収めた。しかし、再び対立して戦死。
- 阿蘇惟憲()<>:
- 阿蘇惟長(?-1537)<>:1505年(永正2年)菊池政隆を当主から追放し菊池家を継ぎ菊池武経と名乗る。
- 阿蘇惟豊(1493-1559)<-1513>:兄の阿蘇惟長から大宮司を継承するが、1513年(永正10年)惟長に追放される。日向に逃れ甲斐親宣の援助を得て1517年(永正14年)大宮司に復帰。阿蘇惟豊墓。
- 阿蘇惟前(生没年不詳)<1513->:阿蘇惟長の子。戦国時代の武将。1513年(永正10年)叔父の阿蘇惟豊を追放するが、1514年(永正11年)に反撃にあって薩摩に逃れた。
- 阿蘇惟将(?-1583)<>:阿蘇惟豊の子。戦国時代の武将。
- 阿蘇惟種(?-1584)<>:
- 阿蘇惟光(1582-1593)<1584-1593>:阿蘇惟豊の孫。12歳で豊臣秀吉に処刑された。大宮司職の権威は終わった。
- 阿蘇惟善()<>:阿蘇惟光の弟。
- 阿蘇友貞()<>:1685年(貞享2年)退任。
- 阿蘇友隆()<>:1689年(元禄2年)退任。
- 阿蘇友名()<>:
- 阿蘇真楫()<>:
- 阿蘇惟典(1732-1793)<>:歌人。
- 阿蘇惟馨()<>:
(国史大辞典)
宮司
- 阿蘇惟治(1808-1879)<>:神職・志士。阿蘇神社大宮司。1877年(明治10年)9月12日死去。
- 阿蘇惟敦(1830-1893)<1873-1883>:惟治の子(神道人名辞典では惟馨の子とする)。1873年(明治6年)阿蘇神社宮司。権少教正。1883年(明治16年)退任。華族となり、男爵となる。(神道人名辞典、国学者DB)
- 阿蘇惟孝(1864-1936)<1883->:惟敦の子。1883年(明治16年)5月、阿蘇神社宮司就任。熊本県皇典講究分所所長。1905年(明治38年)、国造神社社司を兼務。皇典講究所評議員。
- 阿蘇惟紀()<1929-1934>:1929年(昭和4年)阿蘇神社宮司就任。1934年(昭和9年)退任。
- 阿蘇惟友(1923-)<>:
- 阿蘇惟之(-2012)<-2012>:
- 阿蘇治隆()<2012->:惟之の弟。
画像
参考文献
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』