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霊雲寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年4月19日 (金)

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'''霊雲寺'''(れいうんじ)は、東京都文京区にある[[真言宗]]・[[律宗]]の[[真言宗の本山寺院|本山寺院]]。本尊は両部2体の[[大日如来]]。江戸時代、戒律復興運動の先駆けとなった[[浄厳]]が将軍徳川綱吉の帰依を受けて創建した。関東真言律の本寺とされ、[[西大寺]]末の[[江戸触頭]]だった。[[新安祥寺流]]の拠点。現在は[[真言宗霊雲寺派]]総本山。宝林山。大悲心院、仏日院。(参考:同名寺院[[霊雲寺_(同名)]])
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'''霊雲寺'''(れいうんじ)は、東京都文京区にある[[真言宗]]・[[律宗]]の[[真言宗の本山寺院|本山寺院]]。本尊は両部2体の[[大日如来]]。江戸時代、戒律復興運動の先駆けとなった[[浄厳]]が将軍徳川綱吉の帰依を受けて創建した。関東真言律の本寺とされ、[[西大寺]]末の[[江戸触頭]]だった。[[新安祥寺流]]の拠点。現在は[[真言宗霊雲寺派]]総本山。'''大悲心院'''、'''仏日院'''と号す。通称は'''湯島霊雲寺'''。山号は宝林山。(参考:同名寺院[[霊雲寺_(同名)]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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浄厳は、名声を聞いた将軍寵臣の柳沢吉保の推薦で徳川綱吉に謁見。江戸駐錫の地として湯島に3500坪を賜り、元禄4年(1691)、霊雲寺を創建。さらに元禄7年(1694)、関八州真言律の本寺と定められた。
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浄厳は、名声を聞いた将軍寵臣の柳沢吉保の推薦で徳川綱吉に謁見。江戸駐錫の地として湯島に3500坪を賜り、1691年(元禄4年)、霊雲寺を創建。さらに1694年(元禄7年)、関八州真言律の本寺と定められた。1697年(元禄10年)に結縁灌頂を開き、9万人が集まったという。翌年1月には国家鎮護のために大元帥法を執り行った。
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元禄10年に結縁灌頂を開き、9万人が集まったという。
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翌年1月には国家鎮護のために大元帥法を執り行った。
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高崎の[[頼政神社]]が一時遷座していたことがある
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[[高崎・頼政神社]]が一時遷座していたことがある。
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明治12年(1879)、[[勧修寺門跡]]の釈雲照(渡辺雲照)が真言宗各派の代表を霊雲寺に集め、教学の統一と戒律の復興を図るが、受け入れられなかった。そのため、雲照は明治16年(1883)12月16日、戒律興隆のための結社として十善会を設立し、霊雲寺で大会を開いた。
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明治19年(1886)、別格本山となる。関東大震災、東京大空襲で被災。近代には[[高野山]]の末寺となっていたが、昭和22年、[[高野山真言宗]]を離脱して[[真言宗霊雲寺派]]を設立した。
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1879年(明治12年)、内務省の要請を受けた真言宗は高野山大学林学頭で[[勧修寺門跡]]の釈雲照(渡辺雲照)を委員長として各派代表95人を霊雲寺に集め、教学の統一を話し合う大成会議を開催。雲照は戒律復興を掲げた。雲照は1883年(明治16年)12月16日、戒律興隆のための結社として十善会を設立し、霊雲寺で大会を開いた。
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1886年(明治19年)、別格本山となる。関東大震災、東京大空襲で被災。近代には[[高野山]]の末寺となっていたが、1947年(昭和22年)、[[高野山真言宗]]を離脱して[[真言宗霊雲寺派]]を設立した。
== 伽藍と塔頭 ==
== 伽藍と塔頭 ==
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*本堂:金剛界大日如来と胎蔵界大日如来を祀る。右に不動明王、左に愛染明王。昭和51年再建。
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*本堂:金剛界大日如来と胎蔵界大日如来を祀る。右に不動明王、左に愛染明王があった。1976年(昭和51年)再建。灌頂堂とも。
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*祈祷殿:大元帥明王。徳川綱吉直筆の画像だった。堂宇と画像共に関東大震災で焼失。
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*祈祷殿:[[大元帥明王]]。徳川綱吉直筆の画像だった。堂宇と画像共に関東大震災で焼失。大元堂とも。
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*開山堂:江戸名所図会にはあるが、今はない。
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*鎮守:賀茂・稲荷・八幡を合祀。江戸名所図会にはあるが今はない。
*[[妙極院]]:台東区池之端にある境外塔頭。浄厳の墓がある。
*[[妙極院]]:台東区池之端にある境外塔頭。浄厳の墓がある。
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*五智院
*五智院
*福厳院
*福厳院
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ファイル:本郷湯島絵図・湯島.jpg
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== 組織 ==
== 組織 ==
===住職===
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*1[[覚彦浄厳]]
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*1[[覚彦浄厳]](1639-1702)<1691->:1639年(寛永16年)生。[[教興寺]]、[[河内・延命寺]]を復興。1691年(元禄4年)霊雲寺住職。1702年(元禄15年)死去。弟子に[[契沖]]がいる。
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*2慧光(1666-1734):のち[[東大寺戒壇院]]長老となる。
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*2慧光(1666-1734)<?-1727>:覚彦浄厳の弟子。1666年(寛文6年)生。1727年(享保12年)2月21日、退任。同年4月1日、東大寺戒壇院長老となる。1734年(享保19年)死去。(略歴は、[[東大寺戒壇院#組織]]を参照)
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*3慧曦
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*3慧曦(1679-1747)<>:1679年(延宝7年)生。1747年(延享4年)死去。
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*4法明
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*4慧鑑法明(1706-1763)<1746-1756>:1706年(宝永3年)生。1746年(延享3年)10月から1756年(宝暦6年)まで霊雲寺住職。1763年(宝暦13年)死去。
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*5光海
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*5大龍光海()<1756->:1756年(宝暦6年)、霊雲寺住職。1763年(宝暦13年)5月6日死去。58歳。
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*6極妙
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*6極妙()<>:墓所は蓮花心寺。
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*7霊麟
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*7霊麟()<>:自坊は文殊院。
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*8智明
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*8智明(1736-1813)<1802->:1736年(元文1年)生。最法寺、智厳院を経て1802年(享和2年)霊雲寺住職。1813年(文化10年)死去。
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*9円海
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*12義栄
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*13日野開塔()<>:出家した河鍋暁斎が師事。
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*15光野正行
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*15光野正行(?-1917)<>:1917年(大正6年)11月24日死去。76歳。
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*20自宝
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*20高山自宝(?-1970)<>:1970年(昭和45年)8月17日死去。87歳。著書『宗教法衍義』。
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*22鈴木義定()<>:自坊は東京妙極院。
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*24正空
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*24一月正空(1904-1992)<1984-1989>:自坊は地蔵寺。[[普化宗]][[一月寺]]の法孫として生まれる。1904年(明治37年)生。1917年(大正6年)霊雲寺で出家。真言宗立京都大学卒。[[駒沢大学]]卒。1931年(昭和6年)地蔵寺住職。1949年(昭和24年)霊雲寺派独立と共に宗務主事となる。1970年(昭和45年)宗務長・執務長。1984年(昭和59年)霊雲寺貫主。5世管長。1989年(平成1年)退任。1992年(平成4年)2月6日死去。87歳。
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*25智川
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*25瀬間智川()<>:自坊は本庄最法寺。
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*26昌彦
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*26羽生昌彦()<>:自坊は桶川教音寺。
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*27孝義
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*27孝義()<>:
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(『霊雲叢書解題』、霊雲寺ウェブサイト)
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(『霊雲叢書解題』、霊雲寺ウェブサイトほか)
==参考文献==
==参考文献==
*霊雲寺ウェブサイト
*霊雲寺ウェブサイト
*真言密教聖典1915
*真言密教聖典1915
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*天明、真言律宗霊雲寺末寺院牒
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*古事類苑
[[Category:東京都]]
[[Category:東京都]]

2024年4月19日 (金) 時点における最新版

霊雲寺(れいうんじ)は、東京都文京区にある真言宗律宗本山寺院。本尊は両部2体の大日如来。江戸時代、戒律復興運動の先駆けとなった浄厳が将軍徳川綱吉の帰依を受けて創建した。関東真言律の本寺とされ、西大寺末の江戸触頭だった。新安祥寺流の拠点。現在は真言宗霊雲寺派総本山。大悲心院仏日院と号す。通称は湯島霊雲寺。山号は宝林山。(参考:同名寺院霊雲寺_(同名)

目次

歴史

浄厳は、名声を聞いた将軍寵臣の柳沢吉保の推薦で徳川綱吉に謁見。江戸駐錫の地として湯島に3500坪を賜り、1691年(元禄4年)、霊雲寺を創建。さらに1694年(元禄7年)、関八州真言律の本寺と定められた。1697年(元禄10年)に結縁灌頂を開き、9万人が集まったという。翌年1月には国家鎮護のために大元帥法を執り行った。

高崎・頼政神社が一時遷座していたことがある。

1879年(明治12年)、内務省の要請を受けた真言宗は高野山大学林学頭で勧修寺門跡の釈雲照(渡辺雲照)を委員長として各派代表95人を霊雲寺に集め、教学の統一を話し合う大成会議を開催。雲照は戒律復興を掲げた。雲照は1883年(明治16年)12月16日、戒律興隆のための結社として十善会を設立し、霊雲寺で大会を開いた。

1886年(明治19年)、別格本山となる。関東大震災、東京大空襲で被災。近代には高野山の末寺となっていたが、1947年(昭和22年)、高野山真言宗を離脱して真言宗霊雲寺派を設立した。

伽藍と塔頭

  • 本堂:金剛界大日如来と胎蔵界大日如来を祀る。右に不動明王、左に愛染明王があった。1976年(昭和51年)再建。灌頂堂とも。
  • 祈祷殿:大元帥明王。徳川綱吉直筆の画像だった。堂宇と画像共に関東大震災で焼失。大元堂とも。
  • 開山堂:江戸名所図会にはあるが、今はない。
  • 鎮守:賀茂・稲荷・八幡を合祀。江戸名所図会にはあるが今はない。
  • 妙極院:台東区池之端にある境外塔頭。浄厳の墓がある。
  • 智厳院
  • 五大院
  • 蓮光院
  • 宝光院
  • 五智院
  • 福厳院

組織

住職

  • 1覚彦浄厳(1639-1702)<1691->:1639年(寛永16年)生。教興寺河内・延命寺を復興。1691年(元禄4年)霊雲寺住職。1702年(元禄15年)死去。弟子に契沖がいる。
  • 2慧光(1666-1734)<?-1727>:覚彦浄厳の弟子。1666年(寛文6年)生。1727年(享保12年)2月21日、退任。同年4月1日、東大寺戒壇院長老となる。1734年(享保19年)死去。(略歴は、東大寺戒壇院#組織を参照)
  • 3慧曦(1679-1747)<>:1679年(延宝7年)生。1747年(延享4年)死去。
  • 4慧鑑法明(1706-1763)<1746-1756>:1706年(宝永3年)生。1746年(延享3年)10月から1756年(宝暦6年)まで霊雲寺住職。1763年(宝暦13年)死去。
  • 5大龍光海()<1756->:1756年(宝暦6年)、霊雲寺住職。1763年(宝暦13年)5月6日死去。58歳。
  • 6極妙()<>:墓所は蓮花心寺。
  • 7霊麟()<>:自坊は文殊院。
  • 8智明(1736-1813)<1802->:1736年(元文1年)生。最法寺、智厳院を経て1802年(享和2年)霊雲寺住職。1813年(文化10年)死去。
  • 9円海()<>:
  • 10常照()<>:
  • 11智定()<>:
  • 12義栄()<>:
  • 13日野開塔()<>:出家した河鍋暁斎が師事。
  • 14智龍()<>:
  • 15光野正行(?-1917)<>:1917年(大正6年)11月24日死去。76歳。
  • 16真融()<>:
  • 17法麟()<>:
  • 18宥厳()<>:
  • 19教厳()<>:
  • 20高山自宝(?-1970)<>:1970年(昭和45年)8月17日死去。87歳。著書『宗教法衍義』。
  • 21榎本大仙()<>:
  • 22鈴木義定()<>:自坊は東京妙極院。
  • 23浅賀正弘()<>:
  • 24一月正空(1904-1992)<1984-1989>:自坊は地蔵寺。普化宗一月寺の法孫として生まれる。1904年(明治37年)生。1917年(大正6年)霊雲寺で出家。真言宗立京都大学卒。駒沢大学卒。1931年(昭和6年)地蔵寺住職。1949年(昭和24年)霊雲寺派独立と共に宗務主事となる。1970年(昭和45年)宗務長・執務長。1984年(昭和59年)霊雲寺貫主。5世管長。1989年(平成1年)退任。1992年(平成4年)2月6日死去。87歳。
  • 25瀬間智川()<>:自坊は本庄最法寺。
  • 26羽生昌彦()<>:自坊は桶川教音寺。
  • 27孝義()<>:

(『霊雲叢書解題』、霊雲寺ウェブサイトほか)

参考文献

  • 霊雲寺ウェブサイト
  • 真言密教聖典1915
  • 天明、真言律宗霊雲寺末寺院牒
  • 古事類苑
http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%9C%8A%E9%9B%B2%E5%AF%BA」より作成

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