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頂法寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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*中前正志2007「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005] | *中前正志2007「六角堂縁起と池坊いけばな縁起 古代寺院縁起の近世近現代的展開」[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007046005] | ||
*橋本正俊2006「中世六角堂縁起異説」[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7982696-00] | *橋本正俊2006「中世六角堂縁起異説」[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7982696-00] | ||
- | * | + | *2004『仏教図像聚成 六角堂能満院仏画粉本』[http://id.ndl.go.jp/bib/000007363373] |
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2018年1月13日 (土) 時点における版
頂法寺(ちょうほうじ)は、京都府京都市中京区にある観音信仰の天台宗寺院。聖徳太子旧跡。親鸞旧跡。聖徳太子建立四十六寺の一つ。本尊は如意輪観音。六角堂として知られる。西国三十三所観音霊場第18番札所。天台宗単立。本坊だった池坊は華道の家元として知られる。山号は紫雲山。
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歴史
聖徳太子が四天王寺建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里のこの地に来た時、念持仏の如意輪観音を祀ったのが起源とされる。平安京建設時に北に5丈ずらしたという逸話があり、臍石が元来の中心という。 平安時代中期から信仰を集めた。天治2年(1125)12月5日、大火で焼失。創建以来初めてという。
鎌倉時代初期には延暦寺の末寺となっていた。 建仁元年(1201)、親鸞が100日にわたり参籠。観音からの託宣を受け、比叡山を去り、法然の下で浄土教に専するきっかけとなった。
貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが 応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂としての性格を強める。
室町時代、専慶が花道を始める(伝承では小野妹子に始まるという)。
寛永18年(1641)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊池坊の他、多聞院・不動院・住心院・愛染院などがあった。 その後も焼失を繰り返し、現在の堂宇は明治8年(1875)の再建(ウェブサイトでは明治10年とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。
(日本歴史地名大系)
伽藍
- 本堂:本尊は如意輪観音。聖徳太子念持仏と伝える。秘仏。御前立本尊がある。脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩を祀る。六角堂。
- 太子堂:本尊は聖徳太子。頂法寺の開山堂。太子の二歳像、十六歳像、騎馬像を祀る。
- 親鸞堂:本尊は親鸞。「草鞋の御影」と「夢想之像」を祀る。
- 石不動
- 唐崎社:唐崎神社の神を祀る。頂法寺鎮守。祇園神と天満宮を合祀。
- 聖徳太子沐浴の池:石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、池坊の名の由来となった。
- 臍石:平安京の中心を示したという石。元は門前の六角通りの路上にあったが、明治に門内に移された。
塔頭
- 池坊:本坊。現在の池坊会館の地にあった。
- 多聞院:廃絶。
- 不動院:廃絶。
- 住心院:本山修験の寺院。聖護院門跡の院家。京都岩倉に移転して現存する。
- 愛染院:廃絶。
- 能満院:廃絶。天保から元治頃、大願という画僧を中心とする仏画工房があったという。その仏画は京都市立芸術大学に残されている(『仏教図像聚成』として刊行)。
組織
歴代住職
歴代住職は頂法寺池坊#組織を参照。
資料
古典籍
- 「六角堂縁起」:『諸寺縁起集(醍醐寺本)』所収。東京国立博物館デジタルライブラリー[1]
- 「六角堂頂法寺縁起」:1197年(建久8年)の年記を持つが近世の作とみられる。
- 「洛陽六角堂略縁起」:近世の縁起
- 『花道古書集成』[2]