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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

世義寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年8月25日 (土)

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世義寺
せぎでら
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概要
奉斎
所在地 三重県伊勢市岡本2-10-80
所在地(旧国郡) 伊勢国度会郡
所属(現在)
格式など 当山派正大先達
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目次

概要

世義寺(せぎでら)は三重県伊勢市岡本にある伊勢神宮所縁の真言宗寺院。子院威徳院修験道当山派十二正大先達の一つ。本尊は薬師如来。無本寺だった。真言宗醍醐派神宮寺宝金剛院と号す。山号は教王山。伊勢神宮関連旧跡

歴史

行基東大寺大仏鋳造を祈念した際に創建されたという。もと継橋郷前山にあったが、建長年間、円海が中興して、外宮宮域の西の坂之世古に移転した。この時、法楽舎を設け、智証院と称した。また重源東大寺大仏再建の実現祈願に神宮参詣に赴いた時に参籠したという。

1670年(寛文10年)の山田大火では被害は受けなかったが、神宮に接して寺院があるのを問題視した山田奉行が1671年(寛文11年)、現在の瀧浪山に移転させた。1835年(天保6年)、後山に四国霊場の写し霊場を開いたが、神地に相応しくないとの外宮方からの抗議があった。寛文の退去の取り決めに反し、新規異例の行為であり、神宮の屋根より高い位置に仏像を祀るとは恐れ多いと主張。これを受けて山田奉行は、心得違いだとして、天保6年以来の造立の仏像は撤去するように命じた。

1871年(明治4年)、社寺改革の中で、所領が没収されたので、1872年(明治5年)8月、本堂、延命院、法雲寺を威徳院に合併。かつては19の塔頭があったが、ひとつのみ残り、世義寺威徳院とし、醍醐三宝院門跡の末寺となった。(『宇治山田市史』)。

毎年9月中旬から10月中旬まで如法経会が行われていた。11月には外宮では瀧谷(清浄谷)山宮祭を行うが、世義寺で火を炊き、火焔が上がるのを確認してから、祭事を始めたという。神宮から供料が供えられた。

威徳院では毎年6月7日に柴灯護摩を行なっていた。北畠親房は120石を大峰修行料として威徳院に寄進。文禄3年、松坂奉行から50石を永代寄付。

智証院と呼ばれた法楽舎では両大神宮のために大般若経を転読したり、不断経を行ったりした。影向の間という部屋があったらしい。

境内

画像

参考文献

  • 『宇治山田市史』
  • 『日本歴史地名大系』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%B8%96%E7%BE%A9%E5%AF%BA」より作成

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