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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

大聖寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年7月5日 (日)

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大聖寺門跡

大聖寺(だいしょうじ)は、京都府京都市上京区御所八幡町にある臨済宗尼門跡寺院。尼門跡の序列第一位とされる。臨済宗単立。御寺御所大聖寺門跡。山号は岳松山。 もと臨済宗相国寺派(国史大辞典)。院家として大歓喜寺蓮華清浄寺摂取院慈雲院があった。大聖寺宮墓地は大歓喜寺にある。

目次

歴史

室町幕府「花の御所」跡地碑

足利義満が無相定円を花の御所の岡松殿に住まわせたのが起源。 『普明国師語録』に無相定円が1382年7月19日から7日間の法会を開いたと記録されている。 死後、正式に寺院とした。のち左京区長谷に移転。長谷大聖寺、北山大聖寺と呼ばれた。 1479年8月、上京区毘沙門町に移転。

江戸時代、尼門跡第一位となる。宝鏡寺門跡と交代で景愛寺長老職を務めた。 1673年に類焼。1697年、聖護院の旧地である現在地に移転した。 1769年、「御寺御所」号を賜る。

1882年、末寺の嵯峨・福田寺を合併。

(国史大辞典、日本歴史地名大系)

組織

大聖寺門跡(国土地理院空中写真より)

住職

  • 1無相定円()<>:後光厳天皇典侍。日野資名の娘。日野宣子。1368年(正平23年/応安1年)、光厳天皇の供養を天龍寺で行った時、春屋妙葩に師事して落飾。菩提寺は相国寺鹿苑院。岡松一品。
  • 2玉巌悟心(?-1407)<>:西園寺実衡の孫娘。無相定円の姪。大聖寺と改称。景愛寺2世。1407年(応永14年)3月5日死去。玉厳悟心。
  • 無相円光女王(?-1429)<>:後小松天皇皇女。従一位。1429年(永享1年)12月26日死去。修善院宮。
  • 護渓理永女王(1406-1447)<>:後小松天皇皇女(称光天皇皇女とあるのは誤りか)。1447年(文安4年)12月29日死去。
  • 照巌女王(?-1464)<>:後花園天皇皇女。1464年(寛正5年)10月13日死去。
  • 慈勝女王(?-1509)<>:後土御門天皇皇女。1509年(永正6年)9月15日死去。無礙心院宮。
  • 古鑑覚鎮女王(1486-1550)<1492->:後柏原天皇皇女。1492年(明応1年)入寺。1500年(明応9年)剃髪。1550年(天文19年)9月26日死去。古鑑覚珍。
  • 天岳永高女王(?-1559)<>:後奈良天皇皇女。1559年(永禄2年)3月2日死去。宝昌院宮。
  • 覚珍女王(?-1535)<>:(古鑑覚鎮女王と同一人物か)後柏原天皇皇女。1535年(天文4年)12月25日死去。真浄院宮。
  • 祖芳(生没年不詳)<>:2月25日死去。
  • 理慶(生没年不詳)<>:7月28日死去。理渓聖仲?
  • 景室(生没年不詳)<>:6月7日死去。
  • 春齢女王(1549-1569)<>:正親町天皇皇女。1569年(永禄12年)5月13日死去。
  • 永尊女王(1563?-1571)<>:正親町天皇皇女。1571年(元亀2年)10月16日死去。〓思院宮。〓は「月広」。
  • 龍登院宮(生没年不詳)<>:10月16日死去。
  • 東渓(生没年不詳)<>:9月9日死去。
  • 花岳永邵女王(?-1580)<>:誠仁親王(陽光太上天皇)皇女。1580年(天正8年)4月17日死去。放光院宮。
  • 君山文高女王(1595-1644)<1602-1624>:後陽成天皇皇女。1602年(慶長7年)出家。1624年(寛永1年)還俗。1644年(正保1年)8月19日死去。50歳。恵仙女王。天祥院宮。
  • 18説外永宗女王(1609-1690)<1624-1646>:後陽成天皇第六皇女。アテノ宮。1609年(慶長14年)5月2日生。1624年(寛永1年)4月11日、大聖寺で出家。1646年(正保3年)隠居して東御所に移る。ついで嵯峨の蓮華清浄寺、1663年(寛文3年)4月には本光院に移る。1690年(元禄3年)7月7日死去(20日死去とも)。82歳。永崇とも。養徳院宮。陽徳院宮。(「尼門跡の言語生活」ほか)
  • 19久山元昌女王(1637-1662)<1646-1662>:後水尾天皇第十一皇女。説外永宗女王の姪。1637年(寛永14年)9月25日生。滋宮。1646年(正保3年)10月7日入寺。1649年(慶安2年)12月5日得度。1662年(寛文2年)9月9日死去(5日死去とも)。26歳。芳桂院宮。(「尼門跡の言語生活」ほか)
  • 20泰嶽永亨女王(1657-1686)<1667-1686>:後水尾天皇皇女。1667年(寛文7年)大聖寺に入寺。のち法華寺門跡を兼務。1686年(貞享3年)3月5日死去。30歳。本元院宮。
  • 21俊巌永秀女王(1677-1725)<1688-1725>:霊元天皇皇女。1688年(元禄1年)、大聖寺で出家。1707年(宝永4年)、紫衣を賜り景愛寺住職。1725年(享保10年)7月5日死去。49歳。勝光明院宮。
  • 大淑永応女王(1702-1754)<1725-1727>:霊元天皇皇女。円照寺門跡3世。1710年(宝永7年)、円照寺門跡で出家。1725年(享保10年)大聖寺に入寺。1727年(享保12年)、円照寺門跡に移る。大寂永応。1754年(宝暦4年)5月24日死去。53歳。清浄心院宮。
  • (臻岸院宮)(1710-1712)<>:霊元天皇皇女。1712年(正徳2年)4月23日死去。3歳。
  • (慈観院宮)(?-1723)<>:霊元天皇皇女。1723年(享保8年)9月19日死去。
  • 23天巌永皎女王(1732-1808)<1740-1808>:中御門天皇第七皇女。1732年(享保17年)生。翌年、大聖寺門跡附弟に決まる。1740年(元文5年)、大聖寺入寺。1742年(寛保2年)得度して住職となる。1746年(延享3年)紫衣勅許。1769年(明和6年)、御寺御所の号を賜る。1770年(明和7年)9月、円照寺門跡を兼務。初名は天巌永杲。1810年(文化7年)6月13日死去?。勝妙楽院宮。
  • 24玉鑑永潤女王(1820-1830)<1826-1830>:光格天皇皇女。1820年(文政3年)5月1日生。1826年(文政9年)大聖寺で出家。1830年(天保1年)5月28日死去。11歳。普明浄院宮。
  • 25樋口慈綱(-1892?)<>:子爵樋口宣康の娘。1892年(明治25年)死去か。(「尼門跡の言語生活からみた女房詞の研究」)
  • 26石野慈栄(1887-)<-1957->:子爵石野基通の娘。1887年(明治20年)生。1892年(明治25年)入寺。(「尼門跡の言語生活からみた女房詞の研究」)
  • 27花山院慈薫(1910-2006)<>:最初は宝鏡寺門跡。のち大聖寺に転任か。2006年(平成18年)6月17日死去。著書『あやめ艸日記』。


玉鑑永潤女王まで『比丘尼御所諡号考』[1]

画像

資料

  • 「大聖寺日記」:1660年(万治3年)以降の日記が現存。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA」より作成

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